新型コロナウイルスによる脅威
一旦収束しかけたかに見えたウイルス感染者が、緊急事態宣言が解除され、外出自粛から解放されたのを機に、人々が街に繰り出し、若者を中心に急増しています。世界に目を転じるとアメリカやブラジルでは日に何万人もの感染者が増え、死者の遺体を病院では捌ききれず冷凍車が横付けになり列をなしている光景も放映されています。このような報道を知ると、特に高齢者や基礎疾患のある人は感染すると死亡する確率が高いので死の恐怖を感じます。突然の世界的なコロナ感染症によるパンデミックに襲われ、日常の生活も軌道修正が強いられています。生きているこの「いのち」は、常に死が身近にあり、生活の中で表裏一体の関係にあると認識させられます。
このような時に、「いのち」について{「生きるとは何か」40}(2014年12月作成)の資料を使用して再考したいと思います。
いのちの使い方
人は生まれると新たな「いのち」を授かります。授かるいのちの重みは同じですが、生まれた時に背負った遺伝的な状況や、両親の家庭環境などにより生きていく方向は変わってくることになります。最初に与えられる条件や状況は生まれた赤児は選ぶことができず、偶然性があり、その後の人生にも大きな影響がでます。最近、報道された「いのち」の使い方の事例を二つ取り上げてみます。
頂点を極めた男の死
事例の一つは、人生を老後まで全うし、世間的な栄華を上り詰めた高名な俳優です。2014年11月10日に亡くなりました俳優の高倉健さんです。亡くなった直後からテレビには多くの追悼番組が組まれていました。覗いてみると、健さんはその人柄が多くの人に慕われていたことが分りました。生涯205本の映画に出演していますが、40歳頃までの前半はヤクザの世界を舞台にした義理人情もので主演を演じてきましたが、生き方に疑問を感じて、後半は自分として出たい映画に出演していたとのことです。映画の役どころで作られた自身のイメージを大切にし、プライベートな面の取材は極力控えて、撮影現場でも共演者やスタッフにも心を通わせ、相手を想う態度を貫いたようです。映画俳優として文化勲章も受賞しています。多くの人に感動を与え、素晴らしい生き方を示しました。
幼い子供の死
二つ目の事例は、11月24日の6歳未満の女児から小児同士の初の脳死肺移植が行われたとの新聞記事がありました。重い脳障害になり、脳死とされる状態と診断された後、家族が21日に臓器提供を承諾しました。この女児からは心臓や肺、肝臓、腎臓などの幾つもの臓器が提供されました。新聞には「心臓を移植された男児は心不全を繰り返し、心臓補助の人工心臓をつけていた。両親は病院を通じドナー(提供者)が圧倒的に少ない日本で、いつまで息子の心臓が持つか不安な日々だった。息子が新たな人生をドナーやその家族の方々の思いと共に歩んでいけるよう支えあって生きていきたいとコメントした」との記事が載っていました。子供を失う家族にとっては悲しい出来事ですが、ドナーとして我が子を提供する決断をしたことは尊いことです。幼くして人生を終えた子供のいのちを最大限生かしたことになると思います。
83歳まで現役俳優として活躍した人と、6歳にも満たないで重い病になり亡くなった女の子の人生を思うにつけ、一般常識では測れないそれぞれの意味の重さを感じます。この世に生を受けて、自分の人生をどのように全うしたかは死をもってその意味が問われますが、生きている限りは、最後まで終わらない宿題をしているように感じます。
「いのち」のはじまりとおわり
いのちのはじまりとおわりを広い視野から眺めてみると、別の視界があらわれてきます。上に述べた話を考えるうえで参考になると思いますので、坂本志歩著「いのちのはじまり いのちのおわり」(化学同人)から僅かですが抜粋します。この本では、いのちのはじまりから人類の誕生、自分とは誰か?など幅広く科学的な見地から記述されていて、大阪大学蛋白質研究所の監修も受けて書かれています。興味のある方はぜひ手に取って読むことをお勧めします。
「いのち」のはじまり―偶然の出会い
・わずか0.1mmほどだった1個の細胞から私たちの人生が始まる。父の記憶と母の記憶を抱えた受精卵は次つぎと分裂を続け、やがて60兆個、200種類以上という細胞の集団の調和が、私という個を紡ぎだす。ちょうどよいタイミングで出会った精子と卵子。幾重にも重なる偶然の結果、生まれてきたのが私たちだ。ほんの0.1mmから出発する私たちは、わずか38週間で体長50cmほどにも巨大化し、産声をあげる。70%は水分からなり、18%はタンパク質からなる私たちの身体、身体を構成しているさまざまな生体物質のほとんどすべては数ヵ月もすれば別の分子と入れ替わるにもかかわらず、その組成は卵子のときから、生涯を終える日までほぼ変わらない。 (1章 いのちのはじまり 1頁)
この世に生まれてくることは非常に偶然なことです。親の意志でもなければ、自分の思いでもない。宇宙が長い年月をかけてつくりだした生命を生みだす法則?にしたがい、黙々と新たな「いのち」を生みだしてくれたのです。これは地球が与えてくれた大きな贈り物といえます。この段階では自分などというものは存在していません。この宇宙に存在する法則あるいは仕組みの詳細は現代科学でも解明していません。
脳の働き
・私たちはいったい何者なのだろう? 脳死はヒトの死とされている。日本では、大脳、小脳、脳幹のすべての機能が失われた「全脳死」がヒトの死だ。人工呼吸で身体を生かすことができたとしても、脳の機能が失われれば、それは死として判断される。その脳が遺伝子の運び屋にすぎないとすれば、ヒトの死とは何なのか。自然は体細胞を区別しない。結局のところ、自己が特別だと思いたい脳のエゴイズムの産物として、「自己=ほかの臓器とは異なる存在」というものを認めているということでしかないのだろうか。
人は出会い、新しい書物を読み、新たな考えを知る。これによって、神経ネットワークの配線を変え、新しい信号の流れが生まれる。そこには必ずなんらかのタンパク質が介在し、そのタンパク質は遺伝子が生みだしたものである。だとすれば、当たり前かもしれないが、脳によって日々使役される遺伝子も当然存在する。
私たち個人個人が好む本を読み、好きな人と逢い、話をし、音楽や絵画を愛でる。このとき脳が受け取る“何か”が脳のなかに電気信号を走らせ、異なるネットワークの構築を促す。これほどのスピードでこのようなことができる臓器は、脳だけだ。日々の活動から、周囲の刺激から、その瞬間に新たな脳内の環境を生みだすのは、脳しかない。別の臓器の支配すら、脳が行っている。
あらゆるものとつながる身体
・スーザン・ブラックモア著「意識を語る」のなかで著者が行った自由意思に関する調査で・・・つまり、私たちは宇宙の創造と破壊という大きな流れのなかの一部であり、孤立したちっぽけな魂などないというのだ。自由意思そのものも、その流れのなかに組み込まれている。確かに私たちの身体は、常に同じところに留まってはいない。身体を作る物質は日々入れ替わり、一日、一時として同じ自分は存在しない。すべては周囲との流れのなかにあり、森羅万象はつながって存在する。そう考えれば意味のないものなど、この世の中には何一つない。もちろん、あらゆる事柄を肯定するわけではない。それでも、ときにひどく残酷に思えることも、次の何かを生み出すための大きな流れのなかにはあるはずなのだ。 (6章 自分とは誰か?―脳と自己 205–209頁)
脳は私たち一人ひとりを成り立たせる特別な働きをしています。脳の機能が完全に失われると、身体は生きていても、その個人は亡くなっていると言わざるをえません。脳死判定された子供は、身体があるのに死んだとされるのは残酷に思えますが、健全な臓器は移植を受けた人のいのちを救い、引き継がれていくことになります。身体をミクロにみると構成する細胞はつねに入れ替わっていて同じ自分は存在しないことが分ります。「すべては周囲との流れのなかにあり、森羅万象はつながって存在する」とは、仏教でいう諸法無我と同じことです。
宇宙の流れにのなかにある存在
・宇宙は無から始まり、これ以上分割できない小さな物質・素粒子が宇宙誕生とともに生まれた。目に見えないほど小さかった宇宙は、誕生後、すぐに爆発的な膨張を続けた。やがてそこから、物質の世界が登場する。物質の偏りが、しだいに一つのかたちをつくって最初の星となり、生まれてくる無数の星ぼしの死と進化が、次つぎと連鎖して新しい物質を生みだしていく。そうして生まれた銀河や星は、さらに衝突と合体を繰り返し、現在の宇宙のように個性豊かな姿を描きだした。
・地球も、そうした宇宙の中で生まれた天体の一つだ。そして、私たちはその広大な宇宙の片隅の、地球というさらに小さな天体にへばりついて暮らすちっぽけな存在にすぎない。宇宙で繰り返されてきた消滅と生成の、その大きな流れ。私たちも宇宙がもつその大きな流れのなかにあり、ちっぽけではありながらも、静かに人生を醸成し、いつしか、また物質に帰っていく。
・細胞の数にしておよそ60兆個、その細胞の一つ一つが時を刻み、刻々と物質のやりとりを進めている。ヒトの遺伝子の数はおよそ2万といわれているけれど、その2万の遺伝子の情報にしたがって、ただタンパク質をつくりだしても、私たちができあがるわけでない。ある限られた時間のなかで、適切な遺伝子が適切な場所ではたらくこと。周囲の細胞や環境との調和を保ち、適切な時期を決める。こうした時間的につくりだされた制約のなかで、私たちの身体が首尾よく保たれているのだ。・・・ 私たちの身体のなかで、「流れ」は大きな意味をもっている。
(7章 進化―行く川の流れ 211-213頁)
大きく視野を広げてみてくると、冷酷なようですが、自分の気持ちにこだわり過ぎて苦しむことなどないと思えてきます。広大な宇宙の大きな流れのなかに生かされている自分に気づくことができると「静かに人生を醸成し、いつしか、また物質に帰って行いく」ということにうなずけると思います。この宇宙の大きな流れは、生きとし生けるものをはぐくみ育て、土に還して行く、逆らうことのできない巨大な力です。私たちの身体もこの「流れ」が貫いています。大乗仏教では宇宙にある巨大な力を阿弥陀仏や、大日如来であると擬人化していると私は勝手に思っています。人によっては観音菩薩であってもよいでしょう。ここまでは科学的に見た「いのち」の在り方が示されていますが、次に、仏教ではどのように見ているかを、道元のことばから探ってみます。
修証義にある道元のことば
・生(しょう)を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死(しょうじ)のなかに仏あれば生死なし、ただ生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし、このとき初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。
(修証義 第1章 総序 2頁)
理解しやすくするために西川玄苔著「修証義のこころ」から現代訳文を転記します。西川師は澤木興道老師に約20年随身された方です。私は素晴らしい現代語訳をされていると思っています。
・人として生まれてきたり死んでいくのに、どのような深い意義があるかを明らかにするのが仏教の根本問題である。生まれ死んでいく人生の中で、仏法に出会い本当の自己(天地とぶっ続いている)に目覚めた人は、人生の苦悩がありつつも、その苦悩に煩わされない人生となる。ただ、目覚めた人の人生は、どちらへどう転ぼうとも、びくともしない不動の安らぎに落ち着いている。だから、この人生を嫌って、人生以外のところに安住の地を願い求める必要はないのである。このように目覚めてこそ、初めて生死の中にありながら生死を抜けだした者といってよい。だから、もっぱらこの生死の根本問題一つを明らかにするようきわめつくすべきである。
(修証義 第1章 総序 2頁)
西川師の訳文で「仏法に出会い本当の自己(天地とぶっ続いている)に目覚めた人」の部分では、仏教の教えにより本当の自己、すなわち、この身体が天地と一つ続きのなかにあることを深く頷くことができた人が悟った人であると言っています。また別の個所で、
・人間の生命は、それ自身の中に、永遠の生命を内蔵した、無量寿の生命なのである。無論、犬や猫等の生命も、無量寿の生命で生きているのであるが、彼らは、その生命の自覚が生じない。ただ、人間にあってこそ、自分自身の生命は、久遠の生命の一呼一吸であるという自覚に開眼することができる。
とも書いています。
このことは先に述べた科学的視点「私たちも宇宙がもつその大きな流れのなかにあり、ちっぽけではありながも、静かに人生を醸成し、いつしか、また物質に帰っていく」と語られた文章と符合することがあると思いませんか。「宇宙がもつその大きな流れ」が無量寿の生命であると思い描くこともできます。宇宙の大きな流れを、大河の流れにたとえれば、人間は流れのなかでできる波や渦巻で生じた水泡のようなもので、短時間で生まれては消えるはかない存在です。しかし、消えても元の水に戻るだけです。水泡として生まれて、すべての水泡は形や大きさは異なっても本質は同じです。例えが少し簡略すぎましたが、地上に生を受けた生命体は人間を含めて同じ原理で生きているわけで、唯一、人間だけが生命の自覚ができる脳をもつことができたのです。生命の自覚ができる素晴らしい脳の働きですが、良いことばかりでなく、多くの苦しみも生み出しています。
現代の曹洞宗で大本山総持寺貫主、曹洞宗管長を歴任した板橋興宗禅師が2020年7月5日に大往生(93歳)したとサンガ出版社の島影社長がブログでその人柄を紹介していました。そこには「曹洞宗では管長になったら死ぬまで管長でいるのが慣例らしいが、なぜか興宗禅師はそれには安住せず曹洞宗の最高職の座を捨てて、福井の越前市に御誕生寺をゼロから作った人である。まさにお釈迦様が生まれたという意味のお寺だ。興宗禅師は、そんなに大きな意思決定をして、大胆に行動する人には、普段は全く見えない」との記述がありました。ブログを見て、興宗禅師の人柄を知りたいと思い、サンガが出版していた興宗禅師とスマナサーラ長老の対談本と興宗禅師法話集の本「ありがとさん」を購入し読んでみました。そのなかの二編を紹介します。(サンガブログ https://bit.ly/2ZcI1w7)
この瞬間は二度と繰り返せない
私は、お寺の目立つ場所に「今が誕生、今がゼロ歳、今が臨終、今が地獄、今が極楽」という言葉を掲げています。これは、「いまの一時、この出合い以外に事実はないんだよ」ということです。もっとかみ砕いていうならば、あらゆる瞬間がものごとの誕生であり、極楽であり、地獄なのだと。なぜならば、そこには「いま」以外に事実はないからだと。ただ、一瞬一瞬の「出合い」があるだけなのです。そして、出合った瞬間にその出合いは成り立ちそして消える。そして次の出合いが成り立ち、そして消え去っていく。その時々で「事」が完了しているのです。善い悪いとか地獄とか極楽は自分の思い方なのです。「出合い」は事実であり、「いのちそのもの」です。・・・そもそも私たちのからだはとは、地球ができあがって以来の約40億年もの歳月を経った遺伝子の連鎖によってできあがったいわば因縁の積み重ねの結果であるともおえます。・・・私はあえて「出合い」と呼んでいます。一刻一刻の出合いです。
( ありがとさん、101頁)愚痴らないことが「いのち」の実感につながる
私たちの「からだ」は60兆の細胞からなる生命体です。目、耳、舌、皮膚などの感覚を持った生命反応体であるともいえます。目に映ったもの、耳に聞こえたもの、皮膚に感じたもの、そのこと自体は「いのち」の反応です。「いのち」そのものです。
その「いのち」を頭に訴えていろいろ考えることから、善し悪しの判断が生まれます。頭で考えることは「ことば」をつなげることです。言葉をつなげると考えは際限なくひろがります。さまざまな感情も生まれます。意味を持った「ことば」を使うことをおぼえた人間だけ、喜怒哀楽の感情も生まれました。いろいろなことを考え、思考をめぐらすのは、言葉をつなげるからです。・・・ 考えても仕方ないとわかりながら、グチグチと考えがちなのが私たちの現状です。「考えまい」と思うことが考えていることになります。それで、意味のない言葉を反復してつぶやいていると、思考作用が消えて「いのち」そのものを実感するようになると思うのです。
グチグチ愚痴らないために、「ありがとさん」と、ただつぶやくことを、人々にお勧めしたいのです。 (ありがとさん、113頁)
長い修行のなかで仏教を極めた禅師の言葉はシンプルですが、深い内容を含んでいます。
「板橋興宗禅師の大往生」と禅師の本を紹介してくれたサンガの島影さん(63歳)が2020年7月21日に逝去したとの訃報を受けとりました。先月お元気な姿を拝見していましたので、こんなことがあるのだと驚きました。大往生した禅師の言葉を紹介しているさなかに、まだ、まだこれからも仏教書の出版に意欲を燃やしていた方が、突然の他界です。訃報を知った瞬間に明日をも知れない「いのち」の儚さと、生きているとは「今ここ」でしかないことをしみじみと実感いたしました。
過去を悔やみ、将来に儚い思いを託している私たちです。しかし、生きているのは「この瞬間」だけなのです。このことを島影さんは知らせてくれました。ご冥福をお祈りします。