これはどこの国か?
最近のニュースで驚いたのは、アメリカの首都ワシントンの連邦議事堂にトランプ大統領の支持者が大挙して集まり暴徒集団化して議事堂内に侵入した記事でした。新聞記事(朝日新聞、1月7日)によれば議事堂では当時、大統領選の結果を確定させる連邦議会上下両院の合同会議が開催されていたとのこと。議事は中断され議長であるペンス副大統領や議員が避難する事態になった。この侵入前にはトランプ大統領が支持者に議事堂で抗議するように求めていたとの報道がなされています。写真は議事堂に侵入し熱狂する支持者たちの群れです。
(朝日新聞、 1月7日夕刊)
今回の大統領選挙に対してトランプ大統領は最初から選挙には違反があった、と証拠も示さず大規模集会を繰り返して、支持者らの感情を煽り激化させていた感があります。私たち大衆は、個人として集会を立ち上げるほどの実行力はなくても、デモや集会を指揮する少数の人たちによって扇動され、大規模な集団行動のなかで理性的判断をなくします。
元カリフォルニア州知事のシュワルツェネッガー氏が自身の経験を語る動画(1月10日)を見ました。彼はオス―トリア生まれで、父親がナチスの扇動に踊らされてドイツの残虐行為に加担したことで、戦後は酒におぼれ家庭崩壊した事例を語っています。近隣に住む普通の人がナチスの繰り返される嘘と不寛容に少しずつ従うようになった辛い記憶を語っています。今回の議事堂占拠事件を見て、今までこの経験を語ったことはなかったが、アメリカに民主主義の社会が再び取り戻せることを強く願ってメッセージを発信しています。
2016年の大統領選挙のときトランプ氏が大統領になるとは多くの人は予測できなかった。しかし、彼がアメリカの白人中流階級の不満をすくい上げて自国優先の政策を打ち出すことで支持を得て、まさかの大統領選挙勝利を勝ち取った。これも大衆が彼の主張を歓迎し、自分たちの生活を守るための行動を取ったことで、大きな流れを生み出したと思います。
無知な大衆が迎合した廃仏毀釈
少し古い話にはなりますが、明治政府が神道と仏教を分ける神仏分離令を発し、神道を国教として祭政一致の政策を取ったことで、廃仏毀釈運動がおこります。その結果、全国各地で仏教寺院が襲われ、寺院の取り壊しや、貴重な仏像や経典が廃棄されました。背景には江戸時代からの寺請制度で優遇されていた寺や僧侶への不満や神道側の報復の意味もあり、激しい破壊運動が起こりました。
廃仏毀釈のことが大佛次郎著「天皇の世紀,㈨」(朝日新聞、1974年)の「新政の府」の章に具体的事例として多く記述されていますので、そこから2,3の例を要約して引用します。
慶応4年(明治元年)に比叡山の麓(坂本)にある日吉山王社の神官が同士と共に延暦寺に行き、寺内にある七社の神殿の鍵を渡すよう強制したが、延暦寺側がなかなか承諾しないので強行に出たとのこと。この時の様子を史料もとにして小説家の目で書いています。
・同志の壮士3,40名と坂本村の人夫数十人を加え集団となり、槍,棒などを携え山王権現の神域に乱入し、直ちに神殿に昇り、扉の錠をねじあげて殿内に入り、神体となって祭ってあった仏像を始め、僧像その他、経巻、法器等の仏臭い物件を悉く外に投出した。… 一箇所に集積し,土足で踏み、槍の石突きや棒で突き砕いた上、火を放って焼き棄てた。(99頁)
・織田信長の叡山焼き討ちにも来迎寺その他に疎開して難を逃れた中世以来の文化財など、数多く容赦なく焼却したり破壊した。次いで、破壊が全国的に広く波及して、一種の宗教戦争の形相を執り、仏寺を危うくした。奈良興福寺の三重塔なども入札に出し、火をかけて危うく焼落するところであった。(102頁)
・日光の東照宮も壊して移転する直前に、偶然に木戸孝允が現状を見て、平静な彼の常識的な見解から移転中止を政府に建言して助けたとの書簡が輪王寺に保存されている。… 争って急坂を駆け降りるような日本人の性質に木戸は気がついたらしい。彼が偶然に日光を訪れたので、東照宮の建物は今日まで保存された。(116頁)
このような暴挙が全国で行われたのです。特に激しかったのは政府の中心にいた薩摩(鹿児島県)の行動です。鵜飼秀徳著「寺院消滅」(日経BP社、2015年)によると、次のような報告があります。
・鹿児島県史よると、県内には江戸末期まで寺院が1066ケ寺あり、僧侶が2964人いた。ところが1874年(明治7年)には双方ともにゼロになった。… そうした歴史的経緯があり、鹿児島県内には古い寺は存在しない。真新しい鉄筋コンクリート造りの伽藍ばかり目立つ。(179頁)
日本においてこれらの愚行の中心にいた当時の知識層は、政権を取った下級武士や伝統を受け継いでいる神官や僧侶です。扇動している神官が視野を広く持つことができていれば、歴史的な貴重な文化財を破壊するような愚行はなかったでしょう。彼らの扇動で多くの庶民が巻き込まれてあのような熱狂的な騒動になったと思います。自己の分野の価値すら十分に認識していないのですから、それ以外の物事を広く学ぶことはないでしょう。ただその枠内の経験を継続しているだけなのは無知と言わざるを得ないのです。この時に対抗できない僧侶もほぼ同罪です。
現在の知識層は誰か
科学技術が進歩して生活は豊かになったが、心に秋風が吹いているような現代です。現在の知識層は医師や研究者、技術者、大学教授、更には経営者、僧侶などです。特に、科学者や研究者、技術者などは、科学技術が進歩したことで、専門分野は特化して狭まる方向に向かわざるをえない状況です。その結果、他の分野のことに目を向ける余裕もなく、自己の専門分野で成果を上げれば、その経験が全てに及ぶと自己満足し、人生を完結してしまう集団になっていると見ることができます。この専門集団を現代の大衆であるとの見解を語る本に出合いましたので考察したいと思います。ご存知の方は居られるとは思いますが、私は初めて読んでみていささか驚きを感じました。
スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセット(1883―1955)が著した「大衆の反逆」(佐々木孝翻訳、岩波文庫、2020年電子書籍版)です。今から約100年前に現代の専門家がなりうる大衆化を予見しています。
「大衆の反逆」は現代科学への警鐘
「専門主義の野蛮」の章に、現在の専門家が陥る問題点を洞察しています。私などは技術者の端くれですが、ズバリと指摘されているように感じました。以下引用します。( )は補足しました。
・今日、社会的権力を行使しているのはだれだろうか。精神構造を時代に押し付けているのは誰だろうか。 疑いもなく中産階級だ。それではこの、おのれの中産階級の中で現在の貴族のような、上位の集団は誰だろうか。疑いもなくそれは技術者、つまり技師、医者、財界人、教授等々だ。では専門家集団の中で、最も高度に、純粋にその集団を代表する者は誰だろうか。間違いなくそれは科学者だ。
・ところで結論的に言えば、現代の科学者は大衆化した人間の典型である。これは偶然でもなければ、各科学者の個人的な欠点でもない。文明の根源である科学自体が科学者を自動的に大衆に変えてしまうのだ。科学者から原始人を、つまり近代の野蛮人を生み出してしまうのである。
・それぞれの世代において科学者がその仕事の領域を縮小せざるを得ないことから、徐々に科学の他の分野との接触を失い、宇宙に関する完全な解釈から遠ざかるということだ。
・ 分別のある人間になるためには知らなければならないことがいろいろあるが、彼はある特定の科学しか知らない。しかもその科学の中でも、彼はその熱心に研究している極小部分しか知らない人間なのだ。
・事実これこそが専門家の態度である。政治、芸術、社会習慣、そして自分の専門以外の学問において、彼は原始人のような完全な無知な態度を取るだろう。その際にも、他の専門家たちを認めずに―これが逆説なのだが―力強く自信たっぷりな態度なのだ。
・政治、芸術、宗教、生(いのち)の世界に関わる全般的な問題において、「科学者」を筆頭に医者、技術者、財界人、教授などがいかに愚かな考えを持ち、判断し、行動しているかをつぶさに観察することができよう。これまで私が大衆の特徴として繰り返してきたこと、すなわち、上位の要請に対して「聞く耳を持たない」、従わないという条件は、まさにこうした中途半端な資格を持っている人間たちにおいて頂点に達している。彼らは現今の大衆の支配を象徴しており、かなりの部分で実際にもそれを構成しているのだ。
オルテガの物言いは少し過激な思いがしますが、私は耳が痛いと感じました。現在、国民の中核になるのは、医者、企業の技術者、財界人(経営者)、大学教授、僧侶などが知的な階級と思われています。しかし、オルテガが言うように、この知的階級は、広く他の分野を学ぶことは少ない傾向があります。自分の分野で業績を上げればすべてに於いて優れているように思われ、自分でも優れていると思い込んでいるのではないでしょうか。
大企業の社長は成功者で素晴らしい人間であると一般には思われています。しかし、日産のゴーンCEOのように、ある時期は会社の業績を上げましたが、私欲に溺れて最後は国外逃亡です。また、東電の経営幹部は自社の利益を優先するあまり、答申されていた地震対策を退けて、東日本大震災における未曾有の原子力災害(原子炉のメルトダウン)を起こしています。たしかに当時の判断は難しいでしょうが、万が一のことに備えるのが経営者の責任です。何が社会のために重要か分別を働かせる人間であってほしいと思います。
極端な例を示しましたが、当然現今でも、経営者や教授、医者、技術者の中には素晴らしく、尊敬の出来る人はいます。しかし、人は専門が深まるほど他の分野に目を向けることが少なくなるのではないでしょうか。
オルテガは指摘します。「分 別 あ る 人 間 に な る た め に は 知 ら な け れ ば な ら な い こ と が い ろ い ろ あ る が 、 彼 は あ る 特 定 の 科 学 し か 知 ら な い」と。
民間企業で40年過ごして感じたことは、利益優先、効率優先の組織です。世の中に良い製品を出して生活を向上させるために努力していますが、民間企業は利益が優先します。そこに埋没すると価値観が偏り、社会が見え難くなると感じました。
定年後、趣味の世界に入ってみると、利益が出るか、効率が良いかなどは関係のない、全く異なる世界があることに気づきました。多くの人はその世界で生活しています。そのような世界の一つに仏教があります。
仏教の勉強をして気づいたことは、私たちが日常生活している現実の世界のただなかに、真理の姿があると言うことです。自分が置かれた環境(企業や大学、官庁、学校など)で、長年に渡り獲得した価値観や概念がすべてである思って、固定化してしまっています。しかし、それはある場面では正しいのですが、総てに通用するものではありません。固定化した概念から離れることは容易ではありません。見たり、聞いたり、会話したりするとき、既得の固定概念や価値観が立ち現れて、それが判断の基準になっています。
仏教の勉強で得た経験や知識を昔の仲間に話をしても、ほとんどの人は興味を示しません。仏教と聞いた途端に、古臭いお寺のイメージが湧いて、葬儀の時の退屈な読経を聞かされたことが浮かんできます。その先は思考停止状態になるようです。このような状況にした僧侶の責任は重いと言わざるを得ません。多くの僧侶も現在の大衆です。
仏教は生きている人に「自分とは何か」「“私”というのは幻想です」「人間としての生き方」を説いている得難い教えなのです。オルテガの言う「分別のある人間」になるための機会なのです。
私に仏教への関心を持たせてくれた松原泰道師の禅の言葉の解説と、スマナサーラ長老の説得力ある言葉を紹介します。
禅語は現実の世界に真理の姿があることを語っています。
「未顕真実」(未だ真実を顕さず)
まだ真実を顕(あらわ)していない、ではなく、
〈真実は、現にあなたの目前に顕れているのだから、
これ以上顕しようがないし、見せようがない〉と解すべきです。
いわば見ていて見えない、見れども見えずで、本人がこの事実
が見えるようになる以外に、顕しようも、見せようがないものを
「未顕真実」といいます。この未顕真実が後に学ぶ法華経の
「諸法実相(一切の存在は、みな真実のすがたを示す)」の思想に通じるのです。
(松原泰道著「私の法華経」より)
アメリカの暴動、廃仏毀釈の狂気は不満、妬み、怒りから生まれるのです。
スマナサーラ長老の言葉を贈ります。
平和を語る人が強者
我々は怒らないことによって、精神的にも肉体的にも
すごく力強い人間になれるのです。
社会的な言葉で言うならば、
「負けてはたまらない。戦ってやるぞ」という人は
徹底的な弱者なのです。
平和に必要なのは勇気です。
反対に、戦争は弱さから生まれます。
(A.スマナサーラ著「怒らないこと」より)いまの瞬間だけが現実
いまの瞬間だけが現実です。
今の瞬間は、次の瞬間の原因になります。
ですから、将来、良い結果を期待するなら、
「将来という妄想」の中で空回りするのでなく、
心はいまの瞬間という現実に集中するべきです。
いまの瞬間がよければ、当然、次の瞬間も良いのです。
たったそれだけのことで、
人間は最高に幸せに生きていられます。
スマナサーラ著「無常の見方」より)
オルテガの「大衆の反逆」を総括的に学べる本がありますので紹介します。
NHKテキスト「100分de名著;オルテガ、大衆の反逆」中島岳志解説(2019年2月)を参考にして下さい。“多数という「驕り」”という副題がついています。皆と同じであることに価値を置き、「他人の意見を聞く」という習慣を持たない平均的な人で、たやすく熱狂に流される危険性がある集団であるとしています。社会系の本も「人間の在り方」を考えるうえで勉強になります。