生きるとは何か - No.21-9

人生のモットー

2021年9月1日発行

ある質問

定年後に仏教の勉強を始めている方から、仏教では死後をどのように考えているのですかと質問を受けました。死後に不安を感じているようですので、私はそれに対して、生きている間は死を経験することはできないし、死後は私としての意識がなくなるので、心配することは何もないと答えました。

死後のことをあれこれ考え心配する人がいますが、よく考えて見て下さい。この世に生を受けて活動したすべてのものが死によって精算されているのです。歴史上に名を遺した人達でも個人としての身体や心は完全に消えていきます。でも魂は残るのではないですか?と問いかけてきます。魂とはなんですかと質問したくなります。何としてもこの世に繋がっていたいのです。

肉体を離れて霊魂は存在すると信じている人はいるようです。しかし、霊魂はあると言っている人は、自分の心のなかに、亡くなった方への強い思いがあり、その思いが創り出した想念ではないでしょうか。人の生き様や、言葉は、身近にいて影響を受けた人には引き継がれて、心の中で反復され活き活きと蘇りますが、時と共に残像や影響は希薄になり、変化し、変質します。ブッダのような偉大な人ですら、真意がそのまま伝わることはなく、その時代に生きた人を取り巻く、気候風土や社会環境により、受け止め方も変わって、変質していきます。日本の仏教の例を見ればわかるように、中国を経由して伝播したことで、中国の道教や儒教の影響を強く受けています。ブッダの当初の教えからは、大きく変質しています。さらに、日本に古代からの神様があり、あらゆるところに神が存在し、災害も、山の神、海の神の怒りで、その祟りを鎮めるための舞や祭りが奉納されています。

誰でもこの世に未練はあります。何とか生きていたい、死にたくないとの思いは万人共通の強い生存の願いです。しかし、人間は生きものです。生きているとは、常に食物を食べ、水を飲み、呼吸をしていないと体は維持できません。この世に生まれた瞬間から、激しく変化していく環境のなかで、病気になり、老齢になり、最後は死で終わるのです。この基本原則は変わることはありません。誰でも分かっているけれど、日常では思いだすこともなく、考えたくない事実です。

生死を考える

生きること、死ぬことをどう考えるか、参考になる教えとして道元の正法眼蔵の「生死」の巻に次のようなことが述べられています。現代訳された分かり易い文章がありましたので紹介します。著者はネルケ無方師、「道元を逆輸入する」(サンガ、2013)からの抜粋です。ネルケ無方師は曹洞宗の僧侶で、ドイツで16歳のとき坐禅と出会い、来日して安泰寺で半年間修行に参加。その後ドイツの大学のドクターコースを中退、再来日して安泰寺で出家得度し、2002年より安泰寺堂頭(住職)をしていた異色の禅僧です。英訳するために道元の代表的な文章を例にして適切な英語表現を検討しているので、英文から再度日本語訳をしています。その訳文を示します。

・もしあなたが、生が死に代わると考えたならば、それ間違いだ。生は一瞬のありようであり、それには【先】もあれば【後】もある。だから、ものごとのありのままの姿に目覚めれば、あなたは「生は誕生しない」というだろう。同じように滅も一瞬のありようであり、それにはやはり【先】もあれば【後】もある。だから、滅は不滅だ。あなたが【生】といえば、その生以外には何も存在しない。あなたが【滅】といえば、その滅以外には何も存在しない。生きるときは、ただ生きるために生きろ。滅びるときは、ただ滅びるために、滅びよ。くよくよするな。あれこれ欲しがるな。今の生死はそのまま、仏の命なのだ。 (235頁)

ネルケ師の現代訳で「滅び」を「死ぬ」と言い変えると更にスッキリします。

「生きるときは、ただ生きるために生きろ、死ぬときは、ただ死ぬために、死ねばよい。くよくよするな。あれこれ欲しがるな。今の生死はそのまま、天地一杯の我なのだ。」

この天地一杯の我とは、大自然と一つにつながった真実の自己の姿です。

これに続く文章のところは上記の本にはないので、増谷文雄氏が現代語訳した「正法眼蔵」(講談社学術文庫、2005)の「生死」のところから抜き出して以下に続けます。

仏となるのには、ごくたやすい道がある。それは、もろもろの悪事をなさぬこと、生死に執着する心のないこと、そして、ただ、生きとし生けるものに対してあわれみを深くし、上をうやまい、下をあわれみ、なにごとも厭うことなく、またねがう心もなく、つまり、心におもうこともなく、また憂うることもなくなった時、それを仏と名づけるのである。そして、そのほかに仏を求めてはならない。(198頁)

仏とは何か、道元は述べます。更に、意訳をしますと、

「もろもろの悪事をなさず、生きたい、死ぬのは嫌だと執着するな。生きとし生けるものに憐れみの心を持て、何かを嫌がったり、願ったりする心がなく、雑念がなく、憂うることもない人が仏なのだ」

と言えます。こう言われると身近な存在として感じませんか。普段、仏と聞くと、どうしても私たちは大寺院の奥まったところに安置されている釈迦像や観音菩薩、弥勒菩薩、文殊菩薩などの諸仏像を思い浮かべて、自分とはかけ離れたものと連想してしまいます。仏とは、生きている私たちの心の持ち方一つで、現前してくることのようです。

人生は「砂時計」である。

紹介されて、最近読んだ松井孝典氏の本「138億年の人生論」に、人生は「砂時計」であるとの一文に出会いました。その中で、老齢になると、人生について思い巡らすようになるのは、砂時計のようなものであると。
まだ砂がたくさん残っているときは、砂の減り方がわからない。つまり人生なんて考えようともしない。しかし、残りの砂が少なくなると、急激に砂の減り方が早くなったと感じるようになる。そうなってから人生をどうしようか考えても、本当は遅いのです。と述べています。私も老後の時間経過がなんと速いことかと感じていますので、身に沁みました。
松井氏は20歳くらいまでに考えれば、その人生は必ず実現しますと、ご自身の経験を踏まえて断言しています。彼は、その後に多くのことをなしえて科学技術の世界では成功しています。能力があり、積極的な人生を歩んだ方は一握りです。
しかし、多くの人は、定年が近づいた50歳から60歳ころに、漠然と先のことを思い悩み、どうしようかと考えはじめます。何を考えるかが問題です。キャンピングカーで日本一周とか、夫婦で世界旅行とか、今迄、組織の一員として縛られていた時間を自由に謳歌したいといろいろと計画を立て、実行できても、その幸福な時間はあっという間に過ぎ去っていきます。
そもそも、私達は生まれてきた目的もわからず、何のために生きるかもわからず、ただ、生きていくために仕事をしているのが実状です。仕事の世界で大きな成果を上げることができればそれは素晴らしいことで、何かを達成したと自信につながります。しかし、退職して老齢になった時、仕事での成果は過去のことで、今の自分には物足りなさを感じると思います。このような時にもう一度、生きている限り避けられない老いること、病になること、死ぬこと、を思考するのはこれからの生き方の基盤になります。

スマナサーラ長老が説いている「瞑想経典編―ヴィバサナー実践のための5つの経典」(サンガ、2013)のなかに「常に観察するべき五つの真理」が生き方の基盤になると示されています。抜粋して記述します。

常に観察するべき五つの真理

  ・老い
 私たち「老い」ということを乗り越えてはいません。生きているなら、「老い」は必ず通らねばならないものなのです。「老いる」ということは自然法則です。「生きる」ということは「老いる」ということと同じです。人間は、若いとき「若さに対する酔い」というものがあります。「若さ」に酔っていると、高慢になり、放逸になって、悪い行為をするようになります。いわゆる、身体で悪い行為をし、言葉で悪いことを話し、頭で悪いことを考えるのです。
これはたいへん危険なことです。なぜなら、そうやってくだらないことに夢中になっている間も年をとって老いているのですから。若者はそのことにまったく気づいていません。

・病気
人間は肉体を持ったら、必ず病気になります。病気といっても、仏教では病気の定義は世の中のものとは異なります。仏教では「手当をしないと死ぬ」ことを「病気」と言います。
 仏教的に見ますと、お腹がすくことも、のどが渇くことも病気です。お腹がすいたとき、もしも手当てせずに何も食べなかったらどうなるでしょうか? その状態が続くと、死んでしまいます。ですから、これを病気と言うのです。生きること全体が病気でできています。身体の細胞は一つ一つが呼吸をして栄養を摂らないと、生命はいきていけません。それなのに「私は健康だ」などと高慢になって威張っているのは、とんでもない無知でしょう。
 自分の体力や健康に酔ってしまったら、どうなるでしょうか? 他人のことに耳を傾けようとせず、頑固で乱暴になります。放漫で放逸になり、身体でやってはいけない行為をし、口では言っていけないことを言い、頭で考えていけないことを考え、その結果として不幸になり、自分だけでなく周りの人たちも不幸に陥れます。

・死
「生きる」ということが病気と老いでできているなら、最終的には身体は壊れるのに決まっています。それなのに、私たちは妄想の中で生きていますから、私たちの人生プログラムはいつでも「私は死にたくない」という前提でつくられています。私たちの計画や企画、希望、願望のすべては、「私は死にたくない」という前提に基づいてできています。いかに私たちは嘘の世界で生きていることが、おわかりになるでしょう。
 そこで「死は私の本質である」と、常に観察するようにしてください。この思考をしっかりと心にいれておき、その路線で生きてみるのです。そうやっていると、心は落着いて穏やかになり、常に平静でいられるでしょう。
私たちは生きているという「命に対する酔い」があります。いわゆる「生きること」に酔っていて、生きるためならなんでもやろうとするのです。これは若者や健康な人に限らず、すべての人にあるものです。
「命に対する酔い」がもとでやる悪い行為は、死ぬまでやり続けます。自分の命を脅かすよ
うなことが起こったり、危険な目にあったり、面倒なことが起こったりすると、年齢に関係なく、悪い行為をやってしまうのです。

・私の好きなものはすべて変化し、離れて行く
「私が好きで、欲しくて愛着があるもの」という意味です。その愛着しているすべてに、変化する性質があり、離れる性質があるのです。
 自分の欲しいものや好きなものがそろっていると、楽しくて舞い上がって、しかし、反対に、その対象が変わったり、なくなったり、壊れたりすると、その反動でものすごくショックを受け、立ち直れないほど落ち込んでしまう人も中にはいます。
 ですから、最初から「すべてのものは変化する。だから舞い上がって調子にのるべきではない」ということをしっかり理解しているなら、何かあってもショックを受けたときでも、それほど落ち込むことはないでしょう。
 そして本当に離れなければならないときがきたときも、常に観察している人は、心に強いショックを受けることもないでしょうし、喪失感で心が引き裂かれることもないでしょう。心は大きなダメージを受けないで済みます。

・業
私というのは「業」のみです。身体の細胞一個一個が、業でできているのです。
私は業で作られ、業を相続し、業から生まれ、業を親族とし、業に依存している。私の行為の結果は、善いことであれ悪いことであれ、私が受ける。
 業を親族とするの「親族」は、どこに住んでいても親族であって、その血縁が切れることはありません。「決して離れられない自分の親族」といえば「業」なのです。業に依存しているとは「頼れるものは業である」という意味です。生命が頼れるもの、助けになるものは自分の業なのです。しかし、誰も自分のやった行為の結果からは逃れることはできないのです。(228頁から250頁)

最近のオリンピック開催の直前になって、開閉会式の演出統括者が不適切発言で辞任、さらには過去のいじめ問題が発覚して辞任した担当者など、自分のやった行為の結果から逃れることができない典型的な事例がありました。

五つの真理を常に念頭に

・「老いること、病気になること、死ぬこと、好きなものは変化し、離れていくこと、業のことを常に観察する」ことが私たちの生きるモット-であり、生きる路線です。
しかし、俗世間から見ますと、そんなものは生きるモット-ではないと思うかもしれません。
ですが、この五つの対象を観察することこそが、「人はどう生きるべきか」という問
に対する答えであり、完全に安全な道なのです。
・この五つの項目を暗記して、常に念頭に置いて生きてみてください。これは超越したブッダの知恵で語っているのですから、実践してみれば素晴らしく、この上ない結果が体験できるでしょう。

仏教の善い話を聞いても、実践してはじめて心に残り、行動につながるのです。日常の中
で五つの真理を観察していると、日々の変化に気づき、心の不安が薄らぎ落ち着きが得ら
れます。歳は関係ありません。気づいたときがスタートです。

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