生きるとは何か - No.22-11

木を見て森を見ず

2022年12月1日発行

この言葉は調べて見ると、西洋のことわざの翻訳とのことです。一本一本の木に注意を奪われると森全体が見えないことで、物事の一部や細部に捕らわれて全体を見失うことの意味の喩えとして用いられています。私たちは個人として、自分の意識の範囲の中で生活しています。森の中の一本一本の木に喩えることができます。人間の生き方と共通することに気づきましたので事例を紹介して、その意味を考察します。先月の「生きるとは何か」(130)と一部分重複します。

生きることの本質を掴んだ話

ある朝番組でゲスト出演していました女優さん(原田美枝子)が若い時は自己中心的な性格でしたと紹介されていました。その後、出産を経験した時の話に及んで、それを聞いていた私はゾクッとしました。彼女は生きることの本質を掴んだと思いました。 放送時の女優さんの話の概要を記載します。

・20代の若い頃は、100人中99人は敵!と思ってツゥパッテいました。何とか自分の気持を保っていたそうです。その彼女が子供を産んだ時、自分は食べて寝ていただけなのに、何でこんなにちゃんとした赤ちゃんが生れてくるのか。心臓は動いているし、誰が作ったのかと思った。もしかして私の心臓も誰かが動かしているのかと、それまでは自分の心臓も自分で動かしていると思う自分がいたそうです。
大きな力が自分も生かし、赤ちゃんも生かし、宇宙全体を活かしていると、ガーンと気づいたとのこと。そんな大きな強い力があり、それが自分にも届いてきているから今の自分があるのだということを出産体験で気づいたそうです。そのころから少しづつ性格が丸くなったと語っていました。

彼女は、身体の働きを、言葉や思考をはさむことなく自然な状態で受けとめて、全身で大きな力を感じたのです。そこには自分という意識はなく、あるがままに体感したのです。知識として得たのではなく、深く心で頷いたことで、強く心に残ったと思います。この体得した経験は、無意識の内に日常行動に影響を与え性格が温和になり、その後の女優人生を実りあるものにしたと考えられます。

個人の自意識だけで、他人と対峙していた彼女は、個人を包む大きな自然の森の中で生かされていることに気づいたことになると思います。

生き方を悟った老師の言葉

大本山総持寺貫主や曹洞宗管長を歴任した板橋興宗老師(1)が生きている今に気づくことの大切さを語っています。

・今の息づかい、今、目前にものごとを見ているその事実、それが自分の「いのち」ですよというところに気づくことが重要なのです。今の事実に眼を向けさせることが大事なのです。
・私が息をしている。私が死ぬ。私が・・・と、いつも“私”が中心になってしまうとき、それは真実から離れます。それは錯覚なのです。私は「いのちとは出会いだ」とも言います。すべて出会いです。出会っている事実がいのちです。<時>として積み重ねるのです。時間というと、私たちは観念としての時の流れを連想してしまいますが、時間という存在はありません。一刻一刻が事実で、それを「縁」といったり「いのち」といったりします。・・・実際に「今、ここ」以外に事実はありません。今というのは、現実です。それは出会いというか「いのち」というか、その<時>です。それ以外にはありません。それは宇宙始まって以来の「今、ここ」です。だから「在り難し」であり、私にとっては唯一の真実です。今、ここで行なっていることに注目し、そこにいのちが息づき、現実に対面している生き方が問われているわけです。(152-153頁)

長い年月をかけて禅の修行をして到達した老師の境地と同じ経験をしたと思います。
世の中には、出産を経験している多くの女性がいますが、このような体験をし、生きていることの本当の意味に気づいたことは素晴らしいことです。

 先達との交信
文学方面は全くの無知な私が東方学院で加藤講師から中国の唐代の僧、義浄が著した「大唐南海奇帰内法伝」の講義を受講しました。この書物は七世紀インド仏教僧の日常生活を記録したものです。
写真の翻訳書はかなり分厚い本です。講義は中国語の原文で行われ、参考として翻訳書で自習しました。その意味で私にとって加藤講師は仏教や文学方面の先達でした。この本は最近、「現代語訳 南海奇帰内法伝」として法蔵館文庫で手軽に入手できます。興味のある方は手に取って読んでみて下さい。

加藤講師は大病して講師を退任しましたが、その後も毎月書いている「生きるとは何か」の小文をご参考にお送りしてアドバイスを頂いています。
「生きるとは何か」(130)に関して加藤講師との交信した記録が参考になると思いますので紹介いたします。交信する中で新たな知見を得ることができました。

加藤講師から後藤へ(2022.10.7)
  後藤さま
 メール有り難うございました。原田美枝子の出産とその後の体験、世に子を産む女性は沢山いますが、自分と自分を越えたもののハタラキをそこにみた人は決して多くはないでありましょう。
 普通はその手の体験を「神秘体験」といって簡単に片付けていますが、くみ取る意味の深さによって随分中身は変わってくると思います。W.ジェイムスに『宗教的体験の諸相』というのがあって、私は学生の頃岩波文庫に入ったので読んで感心した記憶があります。確か漱石も同時代に読んでしきりに同感の意を表していたといいます。この中の「一度生まれ」「二度生まれ」というのが後藤さんに参考になるかも知れません。仏教では回心(えしん)と呼んでいるものです。
以上です。
        合掌 弟榮司拝

・後藤から加藤講師へ(2022.10.24)
  加藤様
先のメールでアドバイス頂いた、W.ジェイムズの「宗教的経験の諸相」を購入して読んでいます。100年以上前に科学的な視点を入れて宗教的経験を考察していることに感心します。しかし、ベースはキリスト教にありますので、現在の科学的な知見があればもう一歩展開が進んだと思いました。一度生まれと、二度生まれという見方は賛同します。
私たち多くは一度生まれで、その中で幸不幸を経験し人生は一階建てのものとして終了します。しかし、二度生まれの宗教にあって世界は二階建ての神秘である、との言葉がありますが、それは宗教の回心であり、そこでは精神的な世界観が変わると述べていると理解しました。
仏教的には世界をありのままにみることで、同じ私がそこにいるのですが、この身心は宇宙が生みだしたもので、「私」の意識で思考しても見えない。私の自己意識をけすと二階に上ることができて、そこに開けている本当の姿を知ることになると説いていると思っています。
    ざっと読の感想すが、御礼まで  後藤

・加藤講師から後藤へ(2022.10.25)
  後藤さま
 一度生まれ二度生まれの後藤さんの理解は正解だと私は思います。一度生まれの人に二度生まれの宗教の話をそのままのカタチでしてみても、なかなか通じないのは後藤さんの妹さん、私の友人の“安心”提供困難の無念(注)と同じように思えます。一度生まれは一度生まれなりの思いの深め方というのがやはりあったはずです。懇ろな伴走者たりえないというのは単純に私の器量の小ささなのですが。
 天台宗でも止観というのがあって、坐禅とほぼ同じ瞑想をします。私の加行のときの行の最終管理の先生で、止観の指導者でもあったインテリ坊さんは瞑想ステージは私などより遥かに深いのですが、瞑想からでてしまえば俗人でした。思うことと学ぶことを常に緊張の中で追求し続けなければ、人は頽落してしまいます。(略)
 宗教的でも非宗教的でも神秘体験は種々様々です。赤ちゃんを産むときに自分を越えた自分を包む大きな何かの存在を感じた女性は確かにいる、でも感じない女性もそれ以上いるように。やはり思い続け学び続け求め続けるより他ないのではないでしょうか? ジェイムズは確かにキリスト教的です。そこに限界があるのも事実です。ただ漱石所有のジェイムズの著書には同感の書き入れが多数あったそうです。
「則天去私」、禅の漱石の共感を誘うものもあったのだと思います。
以上です。
  合掌 弟榮司拝
(注)(私の妹が癌で終末を迎えたときに心を慰める言葉が掛けられなかったこと、加藤講師も友人の僧侶の臨終に無念の思いをしたこと)

岩波文庫でW.ジェイムズ著舛田慶三郎訳「宗教的経験の諸相」(上、下)を購入して読んでいますが、かなりの分量があり難航中です。ざっと読みして返事を書きました。
上巻の表紙には「科学的な方法による宗教心理学の最初の労作として不朽の名を残す名著。ウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)は、個人の宗教的要求と宗教的経験を重視した独自の宗教観に立って、見えないものの存在に対する信仰がもつ心理的特質・宗教的性向を分析してゆく。膨大な資料が用いられ、回心、聖徳、神秘主義などの現象がみごとに究明される。」とあります。漱石の本に同感の書き入れが多数あったことに頷けます。

肩肘張ってものごとを捉えるのでなく、素直に見ることも大切です。板橋老師が50歳代に話された講演録に次のような言葉がありました。

目先のことにとらわれず、宇宙大のスケールで自分の存在を見つめれば、このはかない寿命がいとおしく、もったいなく思われてくる。わずかばかりの欲望に目がくらみ、あくせく短い一生を終わっていくのは惜しい。人の努力でかなう範囲と、かなわぬ領域がおのずとある。そのけじめを見きわめる知恵がほしい。

(1)板橋興宗、有田秀穂「われ、ただ足るを知る――禅僧と脳生理学者が読み解く現代」
(佼成出版社、2008年)

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