生きるとは何か - No.76

身体は粒子の集合体

2019年5月1日発行

今を生きるしかない生命

 平成30年も既に一カ月が過ぎましたが、多分、誰しも時間の過ぎるのは何と早いことかと気付いていると思います。私は、自身の体について1年を振りかえって見ると、体力も容貌も確実に変化して、有限な時間が一日一日と確実に減っていることを感じます。突き詰めれば、この身体は、留まることなく変わっているのですが、短い時間では見た目の変化が少ないので分からないだけです。

過ぎ去った日々は取り戻すことはできないし、未来を先取りすることも不可能で、今この時を生きるしかない生命なのです。分かり切ったこの事実を真剣に考えることもせず、漠然と頭の中をよぎっていくのが日々の暮らしです。この地上に生存する人間や動物、植物などあらゆる生命は、一瞬一瞬の変化の中に生きていることは、視点をミクロに変えて観るときによりはっきりと認識できます。

苦しみの中で「空」を掴む

ここで紹介する生命科学者である柳沢桂子さんという方は、7年前(平成23年5月)の三宝会資料として書いた「生きるとは何か」(4)に登場しています。その時の記述には、

「物質の性質を現す最小単位は原子(元素)であり、このレベルまで掘り下げて、ミクロの観点から眺めると、人間も極微の粒子(原子)の集まりとなります。

 9年前に、生命科学者の柳沢桂子さんが、36年の長い病床生活を経て掴んだ般若心経の解釈について述べた著書「生きて死ぬ智慧」(小学館)があります。存在や空について科学者の目からみた新鮮な発想と記述です。そこには私たちを存在ならしめているのは、目には見えない小さな粒子(原子)と捉え、その視点から般若心経を読み解いています。私たちがこの宇宙に存在している意味を考えるときの一つの足がかりです」

とあります。

柳沢さんがNHKのラジオ深夜便で話された内容の要約が「こころの時代 特選集[上巻]」(NHKサービスセンタ)(平成22年)として出版されていますので、そこから般若心経との出会いについての部分を抜粋して転記します。

  • 中村元先生が般若心経についてお話しされているテレビ番組を見ましたね。そのお話がとてもおもしろかったものですから、中村先生が紀野一義先生と注釈をお書きになった「般若心経・金剛般若経」(岩波文庫)を読み始めてみました。般若心経そのものに何が書いてあるのかは、まったくわかりませんでしたけれど、学問的に究められたことがやさしく、わかりやすく、詳しく書かれていたんですね。それを何度も何度も、十年くらい読みつづ続けていました。そうしているうちに、まったくわからなかった般若心経の塊が、なんとなく、少しずつほぐれていくような感じは持っていたんですね。

十年も繰り返し読み続けていたとは、「読書百遍意自ずから通ず」の諺がありますが、実践されていたことに感心します。ある時、編集者から突然、現代詩訳を頼まれ、訳にとりかかるがまったくわからない。ただ、般若心経の根本には原子論があると直感していたとのこと、生命科学者であればこそのことと思います。釈尊は原子について知っていたんだと、読めば読むほど強く感じたとのことです。

  • 仏教に「空」という言葉がありますね。般若心経を読んでますと、この宇宙は、それ以上分割することのできない小さなものでできている、といぅんですね。それには、色も香りも音も感覚もありません。そして、その小さなものはいつも動き回っていて、お互いがさまざまな形に組み合わさり、いろいろなものを形作ります。時々刻々と変化していて、実体がない。この実体を持たない小さなものがすなわち「空」だと。

柳沢さんは原子を分かりやすく「粒子」という言葉を使い、粒子の動きとして般若心経を訳しています。技術者の端くれである私には、非常にわかりやすく頷けるものでした。

  • 宇宙と私たちは、一体なのですね。生きて動き回っている私は、常に空気を吸って炭酸ガスを出しています。炭酸ガスの分子は、周りの分子と入り交じっていく。「私がここにいる」と言っても、それは完全に固定された「私」でなない、流動的な「私」なんですね。そしてそれは、宇宙と一体なのです。ですから、「私がいる」という意識は錯覚で、「私」はいないんです。
  • 常に。「私」「あなた」という考え方は人間の錯覚であって、その辺の机やいすと同様、粒子の集合体にすぎない。本来、みんな一元的(あらゆる現象が、一つの原理によって成立するさま)なものなんです。そういうふうに考えましたら、わからなかった般若心経をすっと訳すことができました。 

柳沢さんの斬新な訳にお墨付きを出したのが、我々の師匠であった松原哲明和尚さんです。龍源寺の定例坐禅会の後、有志による勉強会(三宝会)の法話で、和尚さんが大智度論の中に、目に見える最小のものを「微塵」といい、人間を構成している最も小さい要素は「極微」(ごくみ)であるとの記載があると紹介された。ノーベル賞受賞者の湯川博士もこの「極微」について言及しているとの説明でした。その勉強会のなかで、ある仮定をおいて簡単な計算をしたところ、それは原子レベルの大きさであるとわかり、仏教でいわれていることが、現在の科学的知識でも裏付けられることに感動しました。その時の考察を「生きるとは何か」冊子(その1)の「あとがき」に添付しています。

般若心経は科学的な真理

・原子論で読み解いていくと、般若心経は科学的な真理なのです。つまり、一元論でものを見なさいということです。そうすれば自我がなくなると、お釈迦さまはそう言っているのです。自我というのは錯覚の部分ですね。自我がなくなると、「私」と「あなた」という区別もなくなりますから、欲も悲しみもなくなる。例えば、近しいどなたかが亡くなったとしても、その方の存在は、もともと「私」の錯覚で、同じ分子なのですから、悲しむことはないわけです。

 どのような訳をしているか一部を紹介します。色即是空、空即是色、是諸法空相のところを以下に転記します。

  • お聞きなさい
    形あるもの いいかえれば物質的存在を 私たちは現象としてとらえているのですが
    現象というのは 時々刻々変化するものであって 変化しない実体というものはありません
    実体がないからこそ 形をつくれるのです
    実体がなく 変化するからこそ 物質であることができるのです
  • お聞きなさい
    あなたも 宇宙のなかで 粒子でできています
    宇宙のなかの ほかの粒子と一つづきです
    ですから宇宙も「空」です
    あなたという実体はないのです あなたと宇宙は一つです 

私たちの身体を構成している最小の物質は原子(元素)です。その原子を構成しているのは素粒子ですが、物質の構成要素を考えるときは、原子を最小とすることが妥当であると思います。生命に必要な基本的な原子は炭素、酸素、窒素、水素、カルシュウム、硫黄、リン,鉄などです。これらが結合することで、複雑な身体が生み出されています。しかし説明を始めるときりがありませんので、分かりやすく宇宙と生命について書かれた読み物として 長沼毅著「宇宙がよろこぶ生命論」(ちくまプリマ―新書)を紹介しますので興味があったら読んでみてください。宇宙でどのようにして多くの原子が生まれたか、その原子の構造や、原子間の結合はどのようになされるか、生命にとって最も重要な水の振る舞いなどが解説されています。

柳沢さんは非常にシンプルに般若心経の本質を語っていると私は思いました。深く深く生命を観察すると、時々刻々と変化している無常な存在であると気づくことができます。変化して留まることのない身体のどこに実体としての「私」があると思うのでしょうか、ある思う「私という自我」もないのです。あると思う次の瞬間には変わっているのですが、漫然とした私たちの頭では分解能が低くて気づくことができないのです。 彼女の長い闘病生活のなかで辿り着いた結論は、自分という思いの自我があるから苦しみや悲しみがあると気づいたのです。自我を滅しさえすれば、幸福に生きられることを般若心経によって知ることができたのです。

仏教とはシンプル

生きていることの本質が簡潔に説かれるスマナサーラ長老の言葉に出会いましたので、結びとして記載します。スマナサーラ長老の日本での布教活動を紹介する本として「ブッダの贈り物 スマナサーラ長老と初期仏教の世界」(学研)が2011年1月に発刊されていたのを買い求めていました。今回、資料を作成するに際して、たまたま本棚にあるのに目が止まりました。シンプルな言葉で伝えてくれた、柳沢さんの簡潔さと相通じるものがあると思いました。

  • ブッダの「真理」は、神秘的なものではありません。
    誰もが、今ここで、すぐに確かめることができます。
  • 仏教は理解し、実践するものです。
    信仰は不要です。

無常への気づき

  • 「無常」という言葉を耳にすると、
    日本人は、もの寂しいニュアンスを感じる。
    だが、「無常」は、決して感傷的なものではなく、
    クールな事実なのだ。
  • 一切の現象は因果の連鎖のなかで、絶えず変化している。
    「自我」という殻は幻想で、
    「私」も世界も、ただひたすら変わり続けている。
  • 「無常」という真実に気づき、
    流転に逆らうことなく、
    今、この瞬間を、
    ありのままに見て生きるとき、
    人は、真実の幸せに続く道を歩みはじめる。 

慈悲と悟りへ

  • 智慧があらわれれば、慈しみが育まれ、
    怒りが消え、苦が滅していく― 。
    私たちは、ずっと誤解していたのではないだろうか。
    本当の仏教とは、じつはとてもシンプルで、
    今を生きる「あなた」に、向けられたものなのだ。 

私たちは、知識を得ようとして次から次と渡り歩いています。「生きるとは何か」をテーマにして6年以上も書き続けてきましたが、スマナサーラ長老が話されるように、仏教とはシンプルな教えであると思うようになりました。冊子も(その6)まで続きましたが、(その1)で本質はほとんど書いていたことに気づかされました。しかし、視点を変えて繰り返し繰り返し、関連する知識を蓄積することで、シンプルな骨格が補強されていたので、より確かに、より深く頷けるようになったと思われます。長老が仏教の教えは、とてもシンプルだという言葉の背後には、裏付ける多くの仏典からの知識の集積と瞑想実践での確信があってのことなのです。何も知らない人がこの言葉を聞いても、何を言っているんだと思うだけです。我々は怠らず勉強と実践を続けるべきなのだと思いいたりました。

繰り返し学習することの重要性について、「ブッダの贈り物」のなかでスマナサーラ長老が語っている言葉がありましたので、以下に示します。

心は、繰り返しで成長する ― 人生はすべて訓練の結果

  • 心の成長に欠かせないもの、それは、「繰り返し」です。一回だけ何かすればモノになる、ということはない。人生はすべて訓練の結果です。人間が関わるものすべて、個人も社会も政府も国も、繰り返しの訓練によってのみ、成長していけるのです。

 シンプルに聞こえますが、これはお釈迦さまが説かれた「生命の原理」です。心は訓練で成長します。訓練とは単純な話で、繰り返すだけです。繰り返してしまえば、もうできるようになっているのです。過去世とか、業とか、あれこれ考えなくても、人生を成長に導くことができます。「心は繰り返して成長する」と覚えておいてください。その繰り返しがどれくらい真剣か、どれくらい密度が高いかによって、身につくまでの時間の差が出てくるのです。

 しかし、落とし穴もあります。もし心を「間違った方向」に訓練したら、とても危険な状況に陥ります。間違ったことを訓練したら、心はその間違った世界のものになってしまうのです。だから仏教では、冗談でも悪いことをするな、悪を犯しても繰り返すな、と言っています。

 もつとも危険な悪とは、邪見に陥ることです。例えば、「真我(永遠の魂)があるはず」と繰り返し言い聞かせるともうお手上げです。「無常」という目の前の真理を無視して、あらゆる屁理屈で「真我」の存在を正当化してしまいます。世のなかで「神」が信仰されているのも、このカラクリに乗って、間違った方向で思考を繰り返した結果なのです。

 では、心を「正しい方向」に訓練するとはどういうことでしょうか。答えは「八正道」です。八正道の繰り返しによってのみ、私たちの心は解脱の境地まで成長していけるのです。

 八正道とは、仏教の基本的な教えです。解脱に至るための八つの正しい行いで、正見、正思惟、正語,正業、正命、正精進、正念、正定を言うとのことです。言葉だけ見ると何となく分かるように思いますが、それぞれの正しい意味を正確に理解し、実践することが大切です。あやふやな理解では「間違った方向」での繰り返しになってしまいます。次回の宿題として検討したいと思います。

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