生きるとは何か - No.22-9

誰もが心の拠り所を求めている

2022年9月1日発行

衝撃的事件で何が見えたか

安倍元首相が銃弾に倒れる衝撃的な出来事がありました。犯人は母親が宗教教団(統一教会)に多額の金銭を貢ぎ、家庭が崩壊した怨みを安倍元首相に向けたと報道されています。新興宗教に関しては昔から騒ぎがあり、至近な例として、若い頃に近所に住む創価学会の信者にしつこく誘われた経験がありました。誘いには乗ることはありませんでしたが、騒がしかったことを思いだします。公明党という政治団体もでき、選挙のたびに今でも信者の人から必ず電話が掛かってきて、だれ誰を応援してほしい旨、こちらが分かったと言うまで何やかやと熱心に話をしてきます。政治家(特に与党議員)と宗教(特に新興宗教)は双方に利用価値があるから、昔から結び付いていることが知られています。

日本は仏教国であると言われますが、多くの人達は漠然と仏教に興味を持っている程度であり、仏教のことを深くは理解していないと思われます。日本の仏教を語るときには、一概に仏教と言っても伝統的な宗派にも主なものとして、天台宗、真言宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗など多くあり、何を選んでよいか分かりますか? 仏教に、もし興味を持って話を聞きたいと思った時に、何処のお寺を尋ねたらよいか、皆目見当がつかないのが現状です。私の父方の菩提寺は天台宗ですが、母方は曹洞宗でした。葬儀や法事の時にしか訪れることもなく、葬儀や法事の読経も全く理解できませんでした。最近の親族の葬儀の例では、私の実の妹の葬儀は天台宗で、妻の姉妹の長姉は浄土真宗、次女の旦那のときは日蓮宗で葬式を経験しました。それぞれ儀式の作法は大きく異なり、世間的な慣習としてなされています。

多くの人が、仏教との関わりはこの程度のことで、寺に行っても、生き方などについての説法など聴く機会はありません。また、人生に悩んだ時、寺の門を叩いても、相談にのってくれるところがあるでしょうか。一方、新興宗教は悩んでいそうな人に、相手側から声をかけ親身に相談に応じているそぶりをします。最初は身分を隠し接近し、頃合いを見て集会に誘うようです。現在でも大学校内は絶好の狩場になっているとの報道がありました。以前に述べましたが、妹の娘(姪)も大学校内で引き込まれ、最終的には合同結婚で韓国に行く直前で救出に成功しました。主婦の場合は、狙いを定めた主婦を主婦仲間の信者の女性が、言葉巧みに近寄り集会に執拗に誘ってくるのでしょう。どちらにしても宗教的知識(常識)がこちら側にないと、断わり切れないで洗脳されることになります。日本では学校教育で宗教的教育を受けることがないので最低限の常識がなく抵抗力を持っていません。ワクチン接種しないでコロナウイルスに感染するようなものです。

日本の仏教は大きく変質した

そもそも菩提寺ということ自体が先祖から伝わってきたもので、遡れば江戸時代に江戸幕府の宗教統制政策から生まれた制度です。寺院がそれぞれの地域の住人を檀家として戸籍を管理して、葬儀や供養を独占的に執り行うことができる檀家制度を定めたことに由来しています。

檀家とは、菩提寺に先祖の供養を取り仕切ってもらう家のことで、任せる代わりに、お布施や寄付をしてその寺を経済的に支援をする関係にあります。現在は地域共同体が崩壊して、人々は都会に集中しており、核家族化が進み、昔からの習慣で何となく田舎の寺につながっているこの制度は辛うじて存続している状況です。

このような環境の中で、仏教を学んでみたいと思っても間口が広すぎて戸惑うと思います。そもそも仏教とは何か? どの寺を訪ねるかによって、信仰方向が大きく異なってきます。

一般的には、仏教の講演会に出席して法話を聞いたり、書店で書棚に並んでいる仏教関係の書物をながめて、パラパラと頁をめくり、興味を持った本を購入して読んだりしながら、善き縁につながるまでウロウロすることになります。葬式の時だけにしか、仏教に縁がない初心者にとっては、どの道を選ぶか困惑するのが日本仏教の現状ではないでしょうか。

 民衆の前で説法する鎌倉時代のリーダ

このような有り様になったのは、仏教が日本にもたらされた聖徳太子の時代から、悩める民衆を救うためでなく、国家の平安と貴族の病気平癒を願うために利用されてきました。鎌倉時代に入り、疫病や戦乱の苦しみから民衆を救済する今で言うところの新興宗教が起こったのです。法然の浄土教、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗などは伝統仏教宗派である南都八宗(平安時代までに日本に伝わった俱舎宗、成実宗、律宗、三論宗、華厳宗に天台宗、真言宗を加えて八つ)から激しい排斥にあっています。既存の宗派は既得権に安住して苦しむ人々に寄り添うことは少ないエリート集団でした。一般の民衆は、苦しみから逃れるために、心の拠り所を求めているところに、民衆の前に出て、お題目を唱えるだけで救われると説く、新興の法然や親鸞、日蓮などのリーダに心を惹かれて行ったのです。この様相は現在と類似していると思います。

日本の伝統仏教の衰退が見える

伝統仏教の宗派は本山の大寺院と多くの末寺を持つ巨大な組織を形成しています。本山と言われる大寺院は半ば観光寺院になっています。末寺は地域の葬祭を行うことを主な業務とする一般の家庭と変わることはなく、仏教の教えを日常的に布教する地域のセンターではありません。現在は各宗派ともに住職のいない寺が増えているようです。

真剣に生き方を求めて僧侶になる修行僧は少なく、ほとんどが実家の寺を継ぐために、専門の修行道場で1から3年修行した子息が後継ぎとなっていると聞いています。若い頃から生き方に悩み、大学は出たけれど心の安寧を求めて仏門に入り、修行した禅僧の心の遍歴を記した本(1)に出合いました。著者の内山興正老師は、序話のところで、沢木興道老師について得度をし、出家したのが30歳のころ。それから18年間、沢木老師だけについて坐禅修行している。50歳頃(本を書いた昭和40年頃)の今でも京都の街で乞食托鉢している内山老師が日本の仏教について述べています。

・仏教という―――私が仏教の話をもちだすとき、いつもとてもヒケ目を感ずるのですが
それというのもあまりにも、こんにち仏教という言葉を聞いただけでもウンザリする人たちが多すぎるからです。
仏教が日本に入ってから、千四百、五百年もたったでしょうが、この間に仏教僧侶は一体、何をやってきたか、わずかな例外をのぞいて、彼らは日本人に少しも仏教の真髄を教えなかったばかりではなく、かえって反対に、ちょっと仏教と聞いただけでもウンザリするほどに、日本人をシツケテくれました。まことに驚くべき業績といわねばなりません。

私が60歳定年後に、元の職場の仲間に、仏教の勉強を始めていると話すと「後藤さん大丈夫ですか」と心配されたことがありました。その後も、集まりがあって仏教の話を話題にしても退屈なこととして、盛り上がることはなく途切れてしまいます。

世間的な仕事も終わり、時間に余裕が出来たので坐禅会に参加して、和尚の法話を聴いたりしていても、途中で断念する方が多くいます。また、般若心経の解説本を購入し読んでみるが、理解不十分のままに終了する方もいます。坐禅会に参加して熱心に勉強を始めても、ほとんどが坐禅で何かを得ることはないので、仏教とは何かとの問いは自然消滅しています。

日本人には古来から神道が根付いている 

仏教のことを知らなくても、日本人は宗教的感性を持っていると思います。正月の初詣などは寺と神社の区別はなく、寺には除夜の鐘を突きに行き、その帰りに神社を参拝する多くの人がいます。例えば浅草寺に参拝し、その足で明治神宮に詣でることで、ご利益が2倍になるような思いで、深く考えることもなく神仏に祈願して1年の無事をお願いしています。

日本は、どんな田舎でも、大都市でも神社があり、地域の守り神として手を合わせて参拝します。私は川崎市麻生区に住んでいますが、隣接した稲城市の歩いて行ける距離に杉山神社(写真1)があり、何回か家族で初詣をしています。普段はひっそりとしていて宮司は不在ですが、行事のときにだけ神殿が開かれているようです。
調べて見ると、杉山神社は五十猛神や日本武尊を主祭とする神社であり、旧武蔵野国における式内社の一社とされるが、現在は横浜市を中心に川崎市、町田市、稲城市などに数十社存在するとのこと。更に、式内社の意味を調べると、平安時代初期の律令体制下の法制書である「延喜式」の巻第九と巻第十に出てくる神社とのことです。平安時代から継続して地域の守りとして現在まで儀式が続いていることにあらためて驚きました。
杉山神社は鶴見川流域に72社あるうちの一社で最上流域にあり、ご神体は延徳4年(1492年)の懸仏であると由来に記されていました。

家から杉山神社へ行く途中に四方が広く開いたがらんとした建物があり、以前から不思議に思っていましたが、それは杉山神社の御旅所(写真2)でした。神様が乗る神輿などが、旅の途中で休息や宿泊する場所とのことです。身近に古くから地域の人々に守られている伝統文化があることを今回初めて知りました。平安時代からの伝統文化であり、秋になると大きな太鼓の音が自宅にいても聞こえきて、子供の神輿が町内を巡っている賑わいも伝わってきます。日本人の心に神道の伝統が根付くのはこの事例をみても頷けます。

             

               写真1.杉山神社本殿

               写真2.杉山神社御旅所

自然が豊かで四季がある日本では、古来から自然を畏れ敬い、豊かな恵みをもたらすことに感謝する様々な行事を行っています。

仏教伝来後も神道は神仏習合して存在する

日本の仏教を語るときは「神仏習合」は避けることはできません。六世紀半ばに仏教が伝来したあと、神道と仏教は速い時期から神仏習合という思想が起こり、仏教と神道が融合した関係が形成され、明治の神仏分離令がでるまで継続しています。

融合する素地は日本人の自然観が関係すると思われます。日本人は自然の中の一つとして人間も存在するという意識があり、仏教の根本にはあらゆる生命を慈しむ慈悲の心があります。神道の神は自然の中の巨木や大な岩や裏山の森林などは神聖なもので、神が宿っているとして敬っていますが、神聖なものとは何かと深く思考することはしていないと思います。

私の田舎は榛名山の麓ですが、榛名山は古い時代(1万年頃と四世紀半)に大噴火を起こし、周辺地区は火砕流や溶岩ドームで被災しています。山頂から少し下ったところに榛名神社があります。奈良時代には山の怒りを鎮めるために巨大な溶岩に抱かれるように社殿を作っています。創建は(伝)用明天皇元年(586年)といわれ、古くは神仏習合で寺院であったが、神仏分離令のあと仏教色が排除され榛名神社となったようです。神社の歴史を見ると次のような記載がありました。

「延長5年(927年)に完成した「延喜式」の記録には、全国の主要な神社名を書きあげた『神名帳』があり、その中に上野国十二社の群馬郡小社として榛名神社は位置づけられています。この記録に登載された神社は「式内社」と呼ばれ、格式の高い神社と考えられています。これが榛名神社が歴史書の中に取り上げられた最初だといわれています。」

先に述べた杉山神社も式内社でどちらも平安時代から民衆の生活の中で伝統を引き継いでいます。現在の榛名神社は有名な観光名所所になって多くの参拝者で賑わっています。

    

          写真3,双龍門

    

          写真4.本殿

写真3には巨岩に抱かれた榛名神社の双龍門と写真4に本殿を示します。

神社は自然を畏れ敬い平安な暮らしを願って建立されていますが、現代でも伝統的な行事は心を込めて執り行われていると思いますが、日常的には結婚式や商売繫盛、安全祈願、合格祈願、世界平和などの各種祈願することを主な生業にしているとように見えます。

真理を説いているテーラワーダ仏教

人生は苦であると認識して、如何に生きるべきかを説くことは仏教の根本です。しかし、その日本仏教もすでに述べましたように、地域にある寺では、寺門を開いて日常的に説法する寺を私の知る範囲では見かけません。
このような状況に中で、東南アジア諸国{スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア}で行われているテーラワーダ仏教(上座仏教)は日本では少数派ですが、人の生き方についての説法を日常的に行っています。特に、スリランカから1980年に国費留学生として来日し、駒沢大学で日本仏教について学び、その後、日本で仏教伝道活動しているA・スマナサーラ長老は、瞑想指導や講演,執筆などによりブッダの根本的な教えを説き続けています。日本テーラワーダ仏教協会で発行している月刊誌パディパター(2)の質疑応答欄で次のような教えに出会いましたので一例を紹介します。

(質問を要約しますと)怒られたりして落ち込む人は「自分は偉い」と思っていると聞きましたが、どうしたら「自分は偉い」という気持ちが無くなりますか。

長老の答え:私という存在は、無数の生命体の中の一つに過ぎない。

ただ「自分は偉くない」と理解すれば良いだけです。自分自身が、この地球の中で生きている多種多様な生命の中の一個の生命体だと自覚して下さい。人・ホモサピエンスも哺乳類の一種類に過ぎません。私も地球に住む一員だとみてください。多数いるなか、私が偉いでしょうか? 世界を現実的に見てください。「私」ということ自体が科学的ではありません。他の生命と比較すれば、個人ということは認められます。日本人だと人口が一億二千万人くらいで、それぞれが個人としていますが、その中で誰が偉いというのでしょうか。日本人の中の一人、人間の中の一人、生命体の中の一人、個人は取るに足らない存在なのであります。

大きな視点で人間の存在を考えることが、悩みからの解決になると説いています。
もう一つの例を同紙の智慧の扉から紹介します。要点を次に記します。

    他人の評価を通じて成長する

 ・生きるために他人の評価は欠かせないのですが、その評価を完全に信頼し、依存することはできないのです。他人もいい加減です。だから完全に信頼してしまうと問題が起こります。生きることが苦しくなります。大事なのは、生きる上で他人の評価は無視できない。参考にする必要があるということをしっかり憶えておいてください。・・・特に自分を心配してくれる人、慈しみのある人、人格者の評価は、素直に受け取ったほうが身のためです。


毎回、多くの仏典の中から言葉を選び、分かり易く解説して人生の生き方を説いています。内容のある月刊誌です。
統一教会の報道を入り口に、新興宗教に人々が心の拠り所を求めることになるのは伝統仏教側にも問題点があるこということです。神道は宗教心を育みますが、人生は苦であることやその原因と解決の道程は示していません。そこは仏教に教えがあり、具体的な説法は日本仏教協会(各宗派があるデパートのような組織)やテーラワーダ仏教協会のホームページを覗くと情報が得られます。

(1)内山興正著「自己 ある禅僧の心の遍歴」(大法輪閣、2004年)

(2)月刊誌パディパター(日本テーラワーダ仏教協会、2022年6月号)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

コメントを残す

*