世界の政治情勢は揺らいでいます。アメリカの時期大統領選挙でトランプ氏が有力視されています。日本から見ていた私は、前回の選挙でのトランプ氏の態度は異常としか思えなかったです。相手の言葉に耳を貸さないで、一方的に自説を主張する強引な態度に、アメリカの民主主義はどうなっているのかと驚きがありました。しかし、どちらの陣営も相手の発言はすべて信じるに足りるものでないと「フェイクの応戦」でした。いかに選挙民にアピールするかの観点から、支持者に有利になる政策を事実とは何かではなく、勝つことが全てであるとの観点での選挙活動でした。トランプ陣営は落選後に選挙で敗北を認めないとする行動に出て、開会中の国会議事堂を一時占拠するという暴挙にでました。それでも支持者は離れることもなく彼を支援しています。最近の予備選に向けて、共和党では一人勝ちの様相で、民主党は高齢のバイデン大統領が出馬するようですが、激務を遂行しる判断が可能なのか心配を感じます。
哲学者による「トランプ現象と民主主義」の解説
朝日新聞のオピニオン紙面(3月30日朝刊)に佐伯啓思氏の論説「トランプ現象と民主主義」を読みました。新聞の記事は一過性ですので、目に止めて読んだ人でも時間がたつと記憶は薄れます。民主主義の危うさなど深く考えていませんでした。今回、読んでみて非常に参考になりましたので、記憶に留めるために内容を簡単に辿って見ます。
・私の関心をもつものは、「フェイク」と民主主義の関係である。フェイクとは「捏造」することだ。ある言論が「フェイク」なのか否かは、「事実」に照らせば分かりそうだが、何でも事実によって検証できない。それは、「事実」でなく「価値」だからである。客観的事項でなく、主観的意見の対立なのである。トランプ氏のアメリカ第一主義はその価値こそが決定的に重要なのであり、「事実」は問題でない。
AI時代には「フェイク」と「事実」の区別を問うことさえ意味を失いかねない。このような近未来に民主主義に信頼をおけるかと懸念を投げかけている。しかし、佐伯氏は、民主主義が最初からフェイクを内蔵していると指摘している。政治は「人々を幸福にする共同作業」だとすると、「幸福とは何か」が人々に共有されていれば問題ないが、人によって幸福の意味は異なり、絶対的に正しいとする幸福感はない。
そうなると、誰の意見も、全面的に確かではなく、おのれの意見を通そうすると、それは相手から見れば、フェイクな言論と見える。ようするに、民主主義は、価値についての相対主義を前提としている限り、民主的な議論は多かれ少なかれ、フェイク合戦となる。この深刻な事実はすでに古代ギリシャのアテネの民主政において十分に知られていたのだ。
プラトンの民主政批判は、それが価値の相対主義を前提とする限り、ほぼ間違いなくデマゴークを生み出し、民主政は自壊してゆくと見ていた。また、ソクラテスは当時のアテネの民主政を支える大知識人であるソフィスト「知識をもつ人」を徹底して批判した。彼らは何でもよく知っていて、雄弁で、機転がきくので、いかなる立論もできる。白い馬を黒といい、黒い馬を白といい、すべて状況次第であり、その時々に、もっとも効果的な言論を提供する。しかし、ここにはひとつの前提がある。物事の変わらぬ本質などというものは存在しない。存在するのは移り変わる状況と現象だけなのである。本質がないなら、馬は白といっても黒といってもよい。それは人それぞれの自由である。ソクラテスが一生をかけて抵抗したのは、このような状況主義であり相対主義であった。
21世紀の米国において、民主主義を理想的な制度と奉じるリベラル(自由主義)こそが、永遠の真理という観念を放棄し、「幸福は人によって違う、個人の自由だ」という相対主義を唱えた。こうなると「わが幸福こそが本物だ」皆が言い出す。かくてすべての言説がソフィスト的にならざるを得ない。個人の自由と価値の相対主義を唱えるはずのリベラルも、自己の奉じるリベラルな価値だけは決して譲らない。
そこに、リベラルの傲慢と欺瞞を感じた人たちがトランプ支持者になったのだ。それならば「本音」をどなりちらし、あからさまな「フェイク合戦」を挑むトランプ氏の方がわかりやすいのである。
大衆扇動は民主主義の異形というより、その根本的な性格のひとつである。トランプ現象はそれをあらわにしてしまった。だがその背後にあるものは、効率追求に走った現代社会の風潮そのものである。と結んでいます。
多くの人は、私を含めて民主主義は最適な政治システムとして認識しているのではないでしょうか。その民主主義が、すでに古代プラトンの時代に、その本質が議論され、ソクラテスが当時のアテネの民主政を支える知識人を厳しく批判していたことを知りました。この方面に興味がないと、深く考えることもないのでしょうか。同時代に東洋にはブッダが人間の真の姿を求め、覚りを得ています。
ブッダの教えを説くテーラワーダ仏教のスマナサーラ長老の説法に耳を傾けてみました。
仏教では「認識は捏造である」と説く。
私が仏教について、多くを学んだのはテーラワーダ仏教のスマナサーラ長老です。長老の書籍を主体に出版していたサンガ社(社長が亡くなり2022年廃業)主催の長老と行くミャンマーやスリランカの仏跡巡拝に参加しました。そこでの、瞑想センターや寺院での短期瞑想、さらに上座仏教僧の日常を垣間見る機会があり、仏教の新たな修行の姿を知ることができました。これこそが仏教の真の姿だと驚きを覚えました。スマナサーラ長老は、訪れたた仏教遺跡で、遺跡の説明と説法をしています。図1はインド仏跡のサールナート(ブッダが悟りを開いたあと最初に説法をした初転法輪の地)での様子です。そこでの説法の記録(「ブッダの聖地」、サンガ文庫、2011)があり、「人のすべての認識は捏造である」と過激とも思えることを述べています。 図1.サールナートで説法するスマナサーラ長老
法話は仏教の真理である四聖諦についてですが、理解を助けるためにとして、認識について話されている箇所から抜粋して概要を述べます。
・認識は捏造です。ということは、認識はインチキということです。簡単には納得がいかないと思います。私の認識がすべてインチキ? ありえないという気持ちになるからです。人は自分の認識は断言的に正しいと思うのです。ネズミの死骸をカラスはご馳走と思うが、人間にとっては汚物もそのものです。ということは、各々の生命は自分の都合によって、身体に触れるデータを、「捏造」して、認識するということです。認識は捏造なので、ひとりひとりの人間の認識は、自分勝手に自分の都合でデータを捏造したことになる、ですから皆、“互い違い”なのです。相手が何を捏造したのかわからないのです。自分が捏造した認識は正しいと固執するのです。それによって傲慢になったり、相手と戦ったり、意見の違いで悩んだり、自分の捏造認識を他人に強引に押しつけたり、いろいろと問題をつくるのです。欲、怒り、嫉妬などの煩悩も、捏造の結果なのです。
捏造は、妄想ではありません。事実でもありません。捏造とは、データを自分の都合で捻じ曲げることです。十分なデータもないくせに大胆な結論に達することなのです。ただありのままに見ていない、ありのままに認識しないだけの話です。
・ある音を聴いて欲が生まれたり、怒りが生まれたり、無関心だったりと、同じ音を聞いたからといつて同じ反応はおこりません。だからといって反応はランダムでもありません。そこに因果法則があるのです。 因果法則の連続性と同時性を知っているならば、いかにして煩悩が現れては消えていくのかということも、すべて無常の流れなので、自我とは錯覚であることも発見します。自我は錯覚だと知らなかったから、自我は確実にある実体だと勘違いしていたから、いままで苦しみが続いたのだと発見する。それで第一ステージの預流果という覚りに達するはずです。それは言い替えれば、四聖諦をいっぺんに発見したことにもなります。
さまざまな表現でさまざまな方便で人に仏教を語りますが、基本的な真理は四聖諦以外の何ものでもありません。
長老が述べている「インチキ」を「フェイク」に変えて読むと、民主主義の「フェイク合戦」はデータを捻じ曲げて、自分の都合を優先していることが分かります。
佐伯氏の論説の中に「ひとつの前提がある。物事の変わらぬ本質などというものは存在しない。存在するのは移り変わる状況と現象だけなのである。」と述べています。これは長老も語っている「すべて無常の流れ」をはっきりと自覚することが仏教の基本であり、それが得心できれば「自我とは錯覚であることも発見します」に繋がります。
悟りを開いた後に、最初の説法をする若き時のブッダの像(図2)でサールナートの考古博物館に所蔵されています。以前に、龍源寺の松原哲明和尚の先導でインド仏跡巡拝をしたときに拝見し感動した思いがあります。
図2 初転法輪像
今回は四聖諦の説明部分は省きましたが、機会を捉えて是非読んでみて下さい。