生きるとは何か - No.24-7

無常観の理解が根本

2024・7・1発行

  「私」という実体?

私たちは買い物に行ったとき、目の前の食材の価格が普段よりかなり高いと、代わりになる安いものを手に取り、どうしようかと迷い、その都度判断をしています。あらゆる出来事に対して何らかの判断が必ず伴い行動しています。また、買い物していると、陳列棚に並んだ多くの商品の情報が目に飛び込んで何を買うか思案します。思案や判断をするには予め脳内に過去のデータがあり、それを基準や参考として脳が無意識の内に決めたものが意識となり、結果として「私」が決めたと思っています。

今ここに坐って思考している時は、私という自覚はありませんが、必ずその中心には私がいます。この私は自己中心的ですから、何かするとき私の都合を無意識の内に優先しています。私がいることは当然のこととして生活の中では意識することもなく過ごします。「私」は実体を持った存在として疑うこともなく今を生きていると思っています。

仏教を学んで分かったのは、この「私」すなわち「私とは何か」を習うことであると知りました。70歳後半から曹洞宗の寺で坐禅と正法眼蔵の講義を受けています。正法眼蔵は道元禅師の著した著作で95巻あります。その中の一つ「現状公案」の巻に次の言葉があり、最初にこの文章に巡り会ったときに感動したことを覚えています。

仏道をならうといふは、自己をならふなり、自己をならうというは、自己をわするゝなり、
 自己をわするゝというは、万法に証せられるなり。

この自己と言う言葉には、私にとっては布石があります。20代後半で日本少林寺拳法の道場に入門し、武道の鍛錬を始めましたが、練習前には必ず三つの聖句を唱和します。その最初の一句が心に刻みこまれ、社会生活の中で役立っていました。

(おのれ)こそ己のよるべ、よき調えし己こそ、まこと得がたきよるべなり。(法句経160番)

どのような場面においても、最終的に頼りになるのは己(自己)です。その己を、よき己(人格が向上する)になるように励みなさいとのブッダの言葉です。

60歳後半になるまでは、「私」という存在を深く考えることもなく過ごしていました。旅行社のインド仏跡巡拝のツアーに参加したときに、同乗している僧侶の方の仏教の話を聞きながら外の移りゆく景色を眺めている時に、無常とは常の無いことだと気づきました。その後、仏教の教えの中心である「諸行無常」や「諸法無我」が頷いて理解できるようになりました。

無常ということの理解が進むと、謎が解けるように「私は実体ではない」と納得できるようになりました。

   宇宙に繋がる身体 

宇宙に存在するあらゆるものは留まることもなく常に変化していることは、現代物理学で教えるところです。ミクロな視点で身体を覗くと、身体は原子・分子で構成され、その原子は陽子や電子、さらに種々の素粒子に分解されます。その構成要素はすべて法則に則り動いています。原子・分子までミクロに見ると概念としての理解になりますので、実体の身体で無常の流れの例を取り上げてみます。例えば、身体についてみると、毎日の食べ物である肉や野菜などは口で咀嚼され、胃で消化かし、腸に送られたタンパク質はアミノ酸に分解されます。腸壁から吸収されたアミノ酸は血液で全身の各臓器に輸送され、細胞内で新たなタンパク質が合成されます。この働きは生きている間は、一刻も休むことなく続いている無常の流れです。人間の計らいは一切ありません。

仏教の立場で、無常の流れのすがたを曹洞宗の元永平寺貫首の佐藤泰舜師の書かれた「禅の修正義」(誠信書房、2000年第6版)より抜粋し示します。

無常の真意
無常とは人間の身の上に振りかかった悲しむべく、厭うべき運命だとのみ考えて、それを縁起の悪い避けることのできぬ、不幸な事柄として、哀調を帯びた泣きごとの種と思うのは非常な誤りである。
 一切(すべて)は常無(つねな)く、諸行(ものごと)は無常であるというのは、ただ人の死ぬことや、その時の定まらぬことだけをいうのでなくて、天地間の万事万物が、一つ残らず、断えず、非常な速さで移り変わっており、それが積もって大きな変化が来た時のみ人間には分かるが、実は刹那も止まず変わり続けているのが、物事の相(すがた)であることをいうのである。これは非常に深い意味を持つ考え方であると同時に、動かすことのできぬ眼前の事実である。そこに実相を重んずる仏教の健全さと尊さがある。
・無常の考えの中には、世の中の物事が刹那も止まず、現在より過去へと非常な速さで流れ去っておることと、それは決して後もどりをしないこと、従って一切万事唯一回だけのものであること、それは何人も、また何物も自分の考えや力でどうすることもできない、絶対の事実であるということなどが含まれておる。つまり、「存在するものは流れである」ということになる。これが仏教の存在感であって、諸法は無我であるという説と、裏表になっておる教えである。

  無常の体験
けれども実際問題としては、自分の命の無常なること、それが時々刻々、死に近づいており、しかも何時最後となるか全く分からないことを痛切に感ずるのが、無常観の中心であり、力強い実感である。ここに無常観の人生をゆすぶり動かす強い力があるのである。一切は流れて止まぬというのが、理論(どうり)として無常の思想(かんがえ)とするならば、我が命の露よりも果(は)かなきを実感するのが、実践として無常観といってよい。・・・無常の体験こそが真に更生の力となり、真実の道を求むる発心の動機となることを、常に力説していられるのが、道元禅師の無常観についてのお示しである。
 

仏教の教えの基本は、無常のすがたを自分に当てはめて頷けるかということがスタートラインに立つことと思います。佐藤師の説法を味わってください。すべての事が流れの中にあるとは、同じ事は起こらない、縁によって変わり、その中身も同じように見えても変わっています。川の流れの同じ所を凝視していると、表面の波のすがたは微妙に変化しているのが見えてきます。見ている私も最初の私と時間の経過とともに変化しています。このように子細に観察すると、時間の経過とともに刹那刹那すべてが変化していることが見えてきます。実体としての私が何処にあるか? 生きているこの身体は「今ここ」にしかないことも実感できます。このように自己とは何か、道元禅師の言葉「仏道をならうとは 自己をならうなり」が仏教を学ぶことに繋がります。

60歳から絵や書を習い始めましたが、最近になり絵を描く気力が少し衰えてきたので、以前描いた絵に書で人生の言葉を書いて、葉書サイズにして簡単な解説を付けています。
2点を紹介します。

          

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

コメントを残す

*