生きるとは何か - No.24-8

後戻りのない人生

2024年8月1日発行

何気なく過ごす日常の生活も同じような繰り返しに見えます。しかし、注意深く観察すると同じ行動は一つとしてありません。庭の草花も日々生長し、草木は茂り、日増しに緑が濃くなってきています。南国風情のあるハイビスカスを鉢植えで楽しんでいますが、美しく咲いた深紅の花は一日で萎んでしまいます。

私たち人生も留まることなく先へ先へと時の流れに沿って、生から死へと向かいます。30数年前から現在の場所に住んでいますが、確実に世代が交代し、ご近所の高齢者に名を連ねる一人になりました。この歳になっても生死の問題は問い続ける課題です。

生死を明らめる

私なりの理解の仕方はありますが、長年の修行により到達した禅僧の西川玄苔師の「道元禅師と修証義」(大法輪閣、2008年)から抜粋して紹介します。

修証義の第一節は次の言葉で始まります。

(しょう)を明(あきら)死を明らめるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、・・・

西川師は現代の私たちにも理解できる科学的な知見で解説しています。

・世の中の人は殆どが、自分の一生は揺籠から墓場までと思っている方が多い。これは生死問題が解決されておらない人である。生死問題が解決すれば、永遠から永遠に生きづめであるという宗教的信念ができるのである。

両親の二滴が母親の胎内で合流して一滴の水ができた。この一滴の水が、すざまじい勢いで生々変化して、背骨ができ、眼や耳や鼻や口や手や足が、五臓六腑が、十月十日の間に時々刻々と生まれていくのである。

この母胎の中の十月十日に三十五億年の生命の歴史をなしとげて人間となって、オギャーと体外へ生れ出るのである。胎外へ出産してからまた、すさまじい勢いで、幼児から少年、少年から青年、青年から壮年、壮年から老年へと生滅変化しつづけていくのである。その生滅変化の過程は、ちょうど華厳の滝の水が谷底へ流れ落ちる以上の速さである。

検証で見る生命の事実

ちょっと寄り道して、胎内での生命成長の様子を観察した解剖学者である三木成夫氏の著作「内臓とこころ」(河出文庫、2013年)に三十五億年の生命の歴史を証明した人胎児の顔貌変化のスケッチと観察結果が興奮をもって語られています。抜粋して紹介します。

・私たちは母の胎内で、どんなにして大きくなったのでしょうか・・・。あのツワリのはじまる頃の小さな生命―胎児―は、まだホンの米粒ほどのおおきさですが、その勾玉のようなからだの、頸のつけ根には、しかし、肉眼でもはっきりと、サメのエラを思わせる一列の裂けが見られます。手足はヒレの恰好で、小さな尻尾までがついている・・・。

先生は机の上にあるホルマリン漬けの標本を前にして何日もためらったある日、胎児の顔を正面から観察するために、頸の部分を切断して顕微鏡で覗き、特に32日以降、衝撃の体験をしています。

フカだ!それは、まさにあの軟骨魚類のそれだったのです。

生きた化石ともいわれるラブカのエラの顔が、一瞬をよぎりました。もうそれからあとは無我夢中です。36日、38日・・・と、顔を落とし続ける・・・なかでも36日のそれは、もう言葉では表現できない・・・そこには、爬虫類の面影が漂っていたのです。・・・いまでもニュージーランド沖合の、霧に包まれた断崖絶壁の孤島に、細々と生を営み続けているあのムカシトカゲの顔がそこにありました。38日!これはもう哺乳類の顔です。

・・・地球の印した「億」の足跡が、わずが数日の刻瞬に凝縮し、そこに展開された“上陸”の苦闘の歴史が束の間の、“おもかげ”として走馬灯のごとくに過ぎ去ってゆく・・・それは、いってみれば母胎の内なる「小宇宙」の出来事だったのです。

代表的な人胎児の顔貌変化図を添付します。

胎児顔のスケッチ図やその時の詳細な記述は拙著「生きるとは何か」(サンガ、2019年)の「生命誕生に秘める4億年の進化」(p188~192)の項にも述べていますので参照してください。

西川師の解説に戻ります。(年数について一部、最近の数値に変更しています。)

・時々刻々と生滅変化していく、いのちの流れに、我という実体はないが、胎内に生じた一滴水から、次の日は急に青年に変化するものでない。赤児に誕生して翌日には老人になるということはない。胎児から赤児、赤児から幼児と、連続して生滅変化していくのである。

 非連続なものが連続して生死を繰り返し変化して行くから、今日の私は明日の私を産んでいく。今日の私は来月の私を決定していく。今年の私は来年の私を決定していく責任があるのである。

人間の一滴の中には、百三十八億年前に、巨大なエネルギーが大爆発をして宇宙ができ、銀河系が生まれ、五十億年前に銀河系の片隅に太陽系ができ、四十五億年前に地球が生まれ、地球上に三十五億年前に生命が誕生し、その生命が、鉱物、植物、動物と生々発展して、猿から人間になるまでに五十万年かかり、約五万年以前に人間が誕生してから狩猟民、耕作民となり、人間に文化が生じ、人類文化の歴史を受けて、その上、その一滴の両親の先祖代々の歴史・行動を全部受けた。そういう、大は宇宙の歴史から、人類文化の歴史から、各個の先祖の歴史まで、全部ひっくるめて、それら一切を内に具えて胎内にできた一滴の水なのである。

 思いをここに到るならば、この私という生命の一滴は、大宇宙の一切から、人類の歴史文化、各個の先祖代々の行跡、一切を内具しつつ、生滅変化、連続していくのである。

そして、私の今日一日の行跡は、個人の先祖から子孫へ、人類社会の過去現在未来へ、天地宇宙自然の百三十八億年から未来の永劫へ、死んでいくといってもよいし、生まれてもいくのである。私はこのことを「三世十方同時に闊歩す」という。

西川師は宇宙のビックバンから始まる宇宙の歴史(ビックヒストリー)を踏まえて、現在に生きる個人としての私にまで繋がる生滅変化の中に存在していることを説いています。儚い命と思われる私ですが、大きな自然の流れの一構成員であることを意識できる存在なのです。

・このような巨大な、時々刻々の生死の歩みを自覚することが、生死の中に仏あればということである。

生死なしとは、私という実体があって、そのものが、この世に生まれてきた。死んだら餓鬼界に生まれるのか、極樂国へ生まれるとかということはないのである・

 ただ私どもは、華厳の滝の水は滔々と流れ生滅変化しているが、十年以前に覧た華厳の滝と、十年後に覧た華厳の滝と、同じ滝が実在しているように思えるごとく、・・・非連続ながら連続して生滅変化しているから、人間の自我意識が、その連続して流れている面を統一してとらえて、私という実体が存在するように錯覚するのである。

「私」を実体として錯覚しているかぎり、生まれた、死んだは現実のものとなり、喜びや、悲しみ、苦しみが付き従うと説いていると思います。この錯覚から解き放たれた時に安楽が生まれ、涅槃に到るのでしょうが、強い自我意識は簡単には手放せません。そのために仏教では絶え間ない修行が求められているのでしょう。

添えた言葉は:

絶え間なく流れる滝のように、命も深く観察すると一瞬一瞬変化しているのです。それぞれの時の中で輝いています。

F20 水墨画  華厳の滝

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