生きるとは何か - No.24-11

真理は言葉だけでは見えてこない

2024/10/29発行

秋の贈り物

秋も深まり店先には新鮮な赤いリンゴ、や黄色の柿が山と積まれています。果物好きの私にとっては待ちに待った季節の贈り物で、見ると食べたいとの思いが強く、ついつい買い物かごに入れてしまいます。リンゴと一口に言っても多くの品種があり、それぞれ特徴的な味と歯応えを楽しんで、幸せな気持ちになっています。写真は毎年届く弟からの贈り物です。群馬県前橋市に住む弟が、中学の先生をしていた頃の教え子のリンゴ農家で購入したリンゴです。今年も10月上旬に写真のような四種類のリンゴが送られてきました。そのリンゴ農家は、榛名山の中腹(標高500m)にある傾斜面のあるリンゴ畑で、親の代から栽培して、今は教え子の息子さんが、継いでリンゴ畑を維持しています。

どれも新鮮で瑞々しく、歯応えが良く、味はすべて特徴のあるリンゴたちです。リンゴは、新世界、秋映、紅玉、紅鶴と名前が付けられていました。このリンゴの味覚を言葉で幾ら説明を加えても「本当の味?」は分からないでしょう。人はそれぞれ好き嫌いがあるために味覚は、人によって異なります。「味わってみないと本当の味は分からない」と言えます。リンゴ一つとっても、食べるという身体での経験が必要です。

ゴリラの研究で分かった「人間の本質」

人間が生きている意味や、この地球上で生活している私たちは何物か、などの問いに答えることは簡単ではありません。山極壽一氏は長年のゴリラの観察から人間の成り立ちを語っています。講演「ゴリラと歩いて人間の本質を学ぶ」(1)で語られている内容は興味深いものです。講演の中で脳の大きさが現代人並になったのが約40万年前ですが、現代人が登場するのは約20万年前のことで、言葉の発明は7万年前と言われています。集団がある一定(150人)以上なると言葉がないと集団をまとめることが出来ないようです。言葉がない前は、顔と顔を付き合わせて顔の表情から相手の心を読むことで、感情を共有しています。これは人間の目が白目を持っているから目の表情から相手の気持ちを読めて共感力が働くと説明されています。言葉が発明されてから言葉が何をもたらしたか、列挙されています。

  ・見えないものを見せる
  ・重さがなく、持ち運び可能
  ・名前を付けて分類する
  ・違うものをいっしょにする
  ・物語を作り、共有する脳力
  ・想像し、創作する脳力
  ・架空なものを画く脳力 

これを見ると言葉の発明は、人類に飛躍をもたらしたことが一目瞭然です。その結果、人類が他の動物と異なる知能と意識を獲得し、文明・文化を生み出し、今日の社会にまで発展しています。

しかし、最近の情報過多の世界では、言葉によって、物語を作り、共用すると共に、想像し、創作する能力を持てたことが、過度なフィクションの世界を作っています。最近は、その弊害が出ています。山極氏は「いのちといのちのつながり」「新しい人間の暮らし」を考え直す必要があると警鐘を鳴らしています。

「現代は不安な時代」と定義して、その特徴が示されています。

 ・安全=安心な世界でなくなった
 ・安心は独りでは得られない
 ・個人がコミュニティと切り離される
 ・個人が直接国家や行政と関係を結ぶ
 ・宗教が力を失い、科学にも頼れない
 ・世界に中心がない
 ・フラットで均質な世界
 身体のつながりでなく、脳のつながり(情報交換)に時間を使っている。

現在の若者は、PCやスマートホンを駆使して簡単に必要な知識は手に入れることが出来ます。

直接、人と人が会って意見交換をすることが少なくなり、電車やバスの中でも多くの人がスマートホンを操作し、特別な目的も無く広告を追って、手放せなくなっています。最近のニュースでは、若者が簡単にSNSで誘い込まれ、強盗殺人事件を起こしています。情報化社会の悪い側面が増えています。

山極壽一氏の講演は人間の本質に迫る素晴らしい内容です。ここではその一端を紹介しました。時間を作り是非、覗いてみてください。多くの気づきが得られます。

 仏教世界の真理とは?

私の経験は禅宗でしたので、禅宗を例にして見えない世界をどのように説くのか述べてみます。

長くて厳しい修行によって、直に体験させることがなされているようです。臨済宗の聖典である臨済録(2)には多くの有用な教え(言葉)があります。

赤肉団上一無位の真人有り。常に汝らの諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ看よ」

赤肉団とは、お互いの、切れば血が出る肉体のことで、その中に一無位の真人有りとは、一人の真の人間がいますよとのこと。何物にも汚染されていない精神性を持って、世間的な判断では何とも価値を決めることができない。仏教では仏性とか、本来の面目とも言っています。

ありのままでものをみて、余分な忖度や判断をしない立派な主体性を持った、自由で独立した者が「一無位の真人」です。この主人公は五感を通して、眼を通して、耳を通して、鼻を通して、感覚を通して、出たり入ったりしている。この無位の真人こそ、体の中に閉じこもっている不自由な囚人でなく、天地を我として生きている達人なのだと臨済は言っています。

私たちは、誰もが「一無位の真人」が心の心底にいるのですが、日常的世界は目の前の出来事に対して善し悪しを判断し、細かく分別し、執着をしてしまうから気づくことができないと思います。

禅宗では言葉が作られる前の、言葉で表現できない本物を体得すること求めています。

前回報告した禅宗の六祖慧能と南嶽の例を意訳して再度紹介します。

六祖慧能が訪ねてきた南嶽に「あなたはいったい如何なるものか、どのようにしてきたのか」と質問したことに答えられなかった南嶽は、その問いを心に留め8年の修行を続け、師に言った言葉が「説示一物即不中」(真理はいかに言葉を尽くして説いても、説き尽くすことはできない)です。

現代社会のものごとを細かく分節にして示す言葉による理解とは、対極にある話です。このような文化が、まだ息づいていることは、人間も捨てたものではないと思います。

 文明が進むことは善か悪か

言葉の発明で世界に文明・文化を創り出してきたが、それが人類にとって幸福なことなのか、もう一度問われる時代になっています。素晴らしい文明が築かれても戦争により破壊され、勝利者により創られた文明も長期に維持することはできなく、絶え間なく戦争を繰り返している人類です。その間に、多くの戦闘員や巻き添えになる民間人も多数殺されている現実があります。今、この瞬間にも世界各地で戦争は拡大して、収束の兆しは見えません。

その上、最近のAIによる急速な技術開発は将来必ずや禍根を残すことになるかもしれません。歴史を紐解くと発見・発明は人間世界に幸福をもたらすとともに、それを悪意に活用する人が必ず現れ、功罪なかばしています。アインシュタインが相対性理論で、物質は莫大なエネルギーを持つことを発見して、科学が進展しました。しかし、悪用する政治家により原子爆弾が生み出され、世界が破滅する危険な状況になっています。

このような世界を救うためには、ブッダが唱えた「慈悲心」を持つ指導者が出ることを期待したいと思います。

  • 山極壽一 第31回南方熊楠賞受賞講演「ゴリラと歩いて人間の本質を学ぶ」2022年講演会
  • 井上暉堂 「臨済録入門」(東方出版、2008)
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