生きるとは何か - No.24-12

生きる目的はこころが作る

2024年/12月1日発行

先のことは分からない!

NHKTVで時たま見る「サンドイッチマンの病院ラジオ」という番組がり、今回は大きなリハビリ専門病院で開催されていました。多くの患者さんは、突然の脳梗塞、脳出血や交通事故などで脳障害により身体麻痺を発症し、早期回復のために長期のリハビリ訓練に励んでいました。若い人や働き盛りの中年の男女など様々でした。完全に元に戻ることは少ない障害であり長期の訓練が必要とされています。状況が厳しくても、生きている限り頑張るしか有りません。TVを見て、人はこの世に生を得たからには、生きていることが何より大切で、どんな仕事をしているかは、大きな問題でないと思いました。 置かれている状況で努力して、少しでも障害が改善されることで達成感や、やり甲斐を見出して小さな幸せを感じ、生きている実感に繋がるのだと思いました。

他人との比較でものを見ると、不満と焦りと自己嫌悪感が起こり、苦しみが生まれます。TVの中で、長期の療養をしている我が子を思い、生きていてくれるだけで有難のですとの言葉を聞くと、世間並みの価値観では分からない、生きることの有り難さを考えさせられました。

我々地球上の生命は、地球という環境が生命を育んでくれて、生まれたから存在しています。動植物を見れば分かるように、その環境に適合したから生きているのであって、環境が変化すると絶滅危惧種になります。人類もホモサピエンスだけが生き残り、現在繁栄の頂点にいると思います。現在の人類も環境が大きく変化すれば絶滅の危険はあるのです。

非常に基本的なことですが、「生きる目的」についてのスマナサーラ長老の言葉が、日本テーラワーダ仏教協会の機関誌(パティパタ)11月号(1)の巻頭法話で、ダンマパダ(法句)第六賢者の章を解説するところに載っていました。その一部を抜粋して紹介します。

  生きる目的

・生命は目的があって生きているのだと思っています。ところが、「生きる目的は何なのか?」と個々人に尋ねてみても、明確な答えは返ってこないのです。・・・「生きる目的はあるはずだ。だが、それが何かはよく分からない」と要するに、人間は具体的な答えは知らないままに、「生きる目的はあるはず」という前提を抱えて生きているのです。

 目的がはっきりしているならば、それを目指して努力することができます。しかし、生きる目的は誰にも分からないので、生きるプログラムを組み立てることも出来なくなっているのです。 勉強したり、仕事をしたり、家庭を守ったり、子育てに頑張ったり、社会活動などしたりして、皆、生きています。とはいえ、これらの生きがいは、「生きる目的」ではありません。目的がないと人生は進まないので、とりあえず一時的な目標を作って、それを目指しているのです。・・・目的が見つからずに生き続けた挙げ句、人は老いさらばえて臨終の時を迎えるのです。その時、考える能力がある人ならば、虚しさを感じます。いろんなことをして生きてきたものの、臨終の床についたらすべて自分から離れてしまうのです。

上記の文章に関心が留ったのは、私自身が80歳を超えて最終版の人生にいるからです。私たちは日常生活で、生きることにどんな目的があるかなど考えることはないと思います。サラリーマンは目の前にある仕事で良い成果を得て出世をすること、大学の先生なら価値ある研究論文を、芸術家は評価される作品を、学生なら、主婦なら、アスリートなら、僧侶ならば、などそれぞれの目的を持って日々努力しています。しかし、それが生きる目的であると言えるとしても、老境になり、これまでの経験や実績にある程度満足している人でも、一抹の虚しさを感じるのだと思います。

仏教の視点で見ると

仏説は「因縁によって現象があらわれる」という立場です。因縁によって何かの現象があらわれる場合は、そのあらわれた現象には目的はありません。・・・生まれてから、人は老いていきます。老いることは必然ですがそれにも目的はありません。・・・宇宙のすべては、因果法則の流れです。ゆえにどこにも目的がないのです。つまり、生きる目的など始めからないのです。因果法則のシステムのなかで、流転するという現象があります。要するに、如何なる現象にもストップ・停止・終わりということがなく、変り続けるのです。

・広大無辺の宇宙にも目的がないのに、なぜわれわれ人間だけ目的という概念に嵌って苦労するのでしょうか? 実は、目的はあるのです。これはこころの問題です。こころが目的をつくって、認識を回転させます。物質を変えます。・・・生きることは、こころと物質の共同作業です。物質は法則を破らないが、こころは法則を無視して回転します。なぜ(why)という疑問は、こころに起こるのです。それに引かれて意識が発展し、科学と技術も発展します。・・・無知なこころが、その流れに目的(purpose)という概念を入れたせいで、人間の知識が狂ってしまったのです。

ブッダが発見した「因果法則」は、この宇宙の真理です。あらゆる出来事には原因があり、それと関連する要因(縁)が働いて、結果が生じます。例えば、交通事故をみても、運転中の不注意が重大事故になります。その原因はスマホを見ていた、前夜深酒をした、大きな心配事がありぼーとしていた、高齢のためアクセルとブレーキを踏み間違えたなどの種々な原因があり、その結果として大事故に繋がります。体調が悪いときや高齢者は車の運転をしないか、運転を代わってもらうなど事故に繋がる要因をなくすことです。運転は長年しているので、自信があると高齢者はいいます。しかし、自身が老齢になり注意力や判断力が低下していることを自覚出来ないで、俺は大丈夫だと変化している自分に気づけない頑固な人(老化そのもの)がいます。

宇宙法則はあらゆる物は流転し、一瞬たりとも留まることはないのです。人は日々老いてゆき、容姿も、体力も、判断力も、記憶力も坂道を下るように変化を続けています。しかし、その変化は緩やかですから半年、一年とある時間経過して気づくことになるので、いつも同じ自分がいると錯覚しているのです。変化した事実を認識して、執着をしないように努力することです。頭で理解しても、感情を制御するのは簡単ではありません。

事実をありのままに見るためには、瞑想実践をすることが必要のようです。人は、こころを見つめたいと禅寺の坐禅会などに参加して、坐禅をすると何か効果があるように思い、寺の門をくぐります。私は40代の頃、そのような気分になり、坐禅会に参加しました。そこは専門的な臨済宗の寺で立派な禅堂があり、一回50分座り、その後、法話が30分位(臨済録の提唱でした)ありました。初心者の私には、慣れない坐禅は足が痛いのと、仏教書の勉強もほとんどしていなかったこともあり、法話がまったく理解できないなどの理由で、数回参加して諦めた経験があります。60歳定年後、始めた坐禅会(臨済宗龍源寺松原哲明住職)への出席は、初心者を意識した坐禅で、法話も分かりやすい解説でしたので、共に学ぶ良き仲間もできて、現在にも続く貴重な機会となりました。

生きる衝動

・生きていたいのです。死にたくないのです。この気持ちを生存欲と名付けましょう。「生きることは何の目的も存在しない」と納得させたとしても、人は生きていたいのです。生きるために頑張るのです。

人は生まれて、老いて、獲得したものすべて置き去りにして、死にます。あの世には自分の身体すら持って行けないのです。それでも頑張って生きている。・・・人はいったい、何を目指して生きているのでしょうか? なぜ生存欲が強烈なのでしょうか?

これは、こころの問題です。こころが刺激を求めている。眼耳鼻舌身意で刺激を求めている。一般的な言葉でいえば、「楽しみを探している」のです。刺激を求めて、快楽を求めて、楽しみを求めて、私たちは生きています。生きる衝動とは、要するにこれです。生命は楽しい刺激を求めているのです。しかし、いくら求めても満足には到りません。

人は暇になるとかえって苦しいのです。部屋に閉じこもり、何もしないでいることに耐えられなくなり、旅行や観劇、スポーツなどに楽しみを求めます。しかし、感激した楽しみも、しばらくすると記憶が薄れ、感動は波が引くように薄れてきます。すべての楽しみは、求めてもそれで満足することはありません。では、幸せは何処にあるのか。

幸せの所在

西村恵信(元花園大学学長、禅文化研究所所長)の「臨済錄をめぐる断章」(2)の中に、中国の有名な漢詩の例がありましたので紹介します。

・自己の中にもともとあった自分から最も遠いもの、私たちはそれに気づかなければ、いくら遠くへ求めていっても永遠に幸せは掴めないということでしょう。中国の詩人蘇東坡(そとうば)が悟りの後の心境を歌った次のような詩があります。

   廬山(ろざん)は烟雨(えんう)、浙江(せっこう)は潮(うしお)
   未だ到ることを得ざれば、千般の恨み消えず
   至り得、還り来たれば別事無し
   廬山は烟雨、浙江は潮

(けむり)に霞んだ廬山や、滔々と流れる浙江の風景を、一度は見たいものと思い続けてきたが、さて出かけてみると、別にそんなに素晴らしいとも思えなかった。廬山の烟霧や浙江の潮はむしろ此処に居てこそ、意味のあるものだった、ということですが、世の中のよきものは、平常生活の只中にこそある、ということになるのでしょう。 

刺激を求めて生活している私や縁のある仲間の例を考えてみます。現役で仕事をしていても、気分をリフレッシュするために、更なる刺激を求めて、観劇や、映画鑑賞、スポーツ観戦、百名山登山などで楽しんでいます。退職後はフリーな時間が生れたことで、坐禅会への参加や、更なる刺激を求め、毎月のツアー旅行で見聞を広める方もいます。また、趣味ではじめた絵画や書道で公募展に提出しレベルアップを図ったりしています。書道や絵画の世界で会員や指導的なレベルに達した方もいます。生き方を探求するために、大学へ再入学する人や、仏教の勉強を深めるため東方学院での仏教講座の聴講など、学びは際限なく続きます。どの分野を探求するかは、人の好みは様々ですが、絶えず向上することに喜びを感じています。

何事も継続すると変化が起こり、挫折もありますが向上もあり、その刺激を求めて歩き続ける人生の旅路です。

貯まっている絵を整理(廃棄)しようと取り出しましたが、思い切って墨で人生の言葉を書き入れ、作品として再生しています。作成した書画は葉書サイスに印刷し、下部余白に言葉を添えて縁のある方に差し上げています。写真1は15年位前に水墨画や水彩画を学んでいたころの水墨画で、どのような言葉を添えるか、いろいろと考えて「どこまで歩く 人生の旅路」と記したものです。今回、偶然に利用できました。

写真1   山道を行く  (水墨画10号)

何気ない毎日の中で、時に親しい友人との懇談や、家族の団らん、誕生会などで孫たちとの食事会、旅行など、普段の何気ない生活こそが代えがたい幸福と思います。

刺激を求め生活をしている私たちは、個々人がすべて異なる個性を持っているのです。他人と比較すると優劣を思い、時には敵意が生れます。苦しみの人生を送ることになります。すべてに慈しみのこころで接することが出来ることが最高の幸せと思います。慈悲の瞑想では「生きとし生けるものが幸せでありますように」と唱えます。

  • パティパター、日本テーラワーダ仏教協会機関誌、2024,11月号
  • 西村恵信「臨済録をめぐる断章」、禅文化研究所、2006年
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