生きるとは何か - No.25-4

人間の心は不安定で脆い

2025年4月1日発行

洗脳される若者達

オウム真理教による地下鉄サリン事件から既に30年経過し、事件が風化し始めています。1995年3月20日、オウム真理教の幹部らが猛毒の神経ガス「サリン」を都内の地下鉄・日比谷線、丸ノ内線、千代田線の車内で散布し、死者14名、負傷者6000名以上を出した戦後最大にして最悪の無差別テロ事件であると報道されています。当時50代の私は事件のことは鮮明に記憶していますが、30年前の事件であり、今の若者にはその深刻さは継承されていないと思います。事件を実行したのは、麻原彰晃というオカルト教祖に洗脳された20~30代の若者です。

サリンのような猛毒ガスは、かなりの化学的知識が無いと製造できません。それを製造した若者は東京大学や大阪大学、早稲田大学の大学院を出ている科学者でした。学問的な知識や能力は優れているのに、凶悪な殺人事件に対する善悪判断も出来なくなるまでに、心が麻痺してしまうのか、庶民感覚では理解が不可能です。このカルト集団に入信する人には、気持ちが落ち込み、先の見通せない迷いがあり、そこから抜け出す何かを求めていたのでしょうか。あるいは、日常生活での善悪や常識的な宗教に関する知識がほとんどなくて、麻原の言葉に共鳴して、救いを見出したのでしょうか。いずれにしても高学歴で科学的専門知識をもった若者が入信して、命令されるままに殺人まで犯しているのです。一旦、信じてしまうと思考が停止して、普通の善悪判断が出来なくなるのでしょう。

洗脳という悪事―身近に経験した実例

似たような新興宗教である統一教会にも多くの若者が取り込まれています。私ごとですが、身内の娘さんが大学入学後の孤独な心の空白期間に誘いこまれ、入信した出来事がありました。4年後の卒業する頃には、韓国での合同結婚式に、出席するまでに洗脳されていました。運良く出国直前に、阻止して何とか救出に成功しました。しかし、救出を実行するそれまでの準備期間を含めると大変な苦労がありました。

人は、宗教的に空白な心の状況では、不合理で怪しげな話でも、判断が出来ずに引き込まれてしまいます。一端それが心に定着し、固定化されると、植え付けられた妄想が、日常生活における判断の基準となり、世間的な常識を全く受け付けなくなります。その呪縛を解きほぐすために、専門的な知識をもった人が、週に何回も訪問して教義の矛盾を解説する機会を持っても、最初は簡単に聴こうとはしません。しかし、耳を塞いでいるわけでないので、話された内容は少しずつ心に沈積し、自問自答するうちに矛盾点に気づいてくるようでした。ある程度、気づいたと見えるまでには4ヶ月位を要しています。完全に回復するには1年近くかかっていました。

この経験から、私たち一般人が少しくらい説教しても、彼や彼女達は聞く耳を持たず、間違いに気づくことはほとんどないと言えます。今回の場合、救済の機会を得られるのは、両親だけでなく、兄弟や親戚の協力体制が整うことが必要条件であり、かなりの覚悟を要しました。

残念ながら統一教会は相変わらず存続しています。安倍元総理の暗殺という不幸な事件があって、始めて国が動いています。それまでの自民党議員は、選挙での支援がほしいために、統一教会の集会で祝いの挨拶をしたり、祝電を打ったりしているのです。韓国の教祖は反共で知られていて、日本は資金源と捉え、多くの若者に行商させ、主婦を騙し高額の本や置物を買わせて、その現金数億円を毎月韓国に送っていたのです。脱会を支援する団体があり、私はその支援活動に参加した際に、統一協会の活動の実体を知りました。政治家は、内実をほとんど知ることも無く、選挙の支援を得たいがために表面的な付き合いをしていて、その裏では、日本の若者や主婦が犠牲になっているのです。

統一教会問題も先日、宗教法人取り消しの判決がありましたが、協会が控訴するので解決まで時間がかかるでしょう。オウム真理教も、教団の名前を変えて継続し、1300人くらいの信者がいると報道されています。これからの日本を担うべき若者が、呪縛から逃れられないで迷っているのです。本腰を入れて脱会の支援団体を作り、地道な活動をしないと、問題解決には至らないと思います。

人間は怪しげな思想でも一度はまり込んで信じてしまうと、それが真実となって、生活のすべてを支配されてしまいます。よく考えてみると、世界の出来事は、それぞれの国や指導者が、我が思想は真実であり正しいと固定した観念で競い合っているのが実情です。これでは何時までたっても世界は平和になることがないし、戦争は無くならない道理です。

安心を求める脆い心

人間が、不合理で如何わしい話も信じてしまう心は、生れながらに備わっている本能の一部であるといえます。壊れやすく脆い心は、安心させ、落ち着かせることが必要なのです。安心を求めている理由は、誰にでも確実に訪れる「老病死」です。老いるのは嫌だ、病気になりたくない、死にたくないと苦しみがあるからです。幾ら執着しても、死ぬ時はすべての経験と財産を失うことになります。この強い恐怖感から逃れたい思いで、頼りなる絶対者に救いを求めるのです。それに答えるために、人間は頼れる宗教を創作、妄想し、多くの人はそれで救済されているのです。

世界宗教となっているキリスト教、イスラム教、仏教などの宗教が生れましたが、時の経過と共に、それらは数限りなく分派して、新興の宗教が造り出されています。分派した宗派間では、時に流血の争いまで起こしています。なぜ紛争になるか、そこには自分たちの宗派が優れているという強い自尊心や自我があるからです。常に変わらぬ自分達が中心にいて、他より優れた我々でありたいという願望があるからです。個人にとっても同様で、他人と比較して優れていると思い込むと、傲慢になり、戦闘的になります。また、逆に強い劣等感を持つと、生きている意欲をなくして、自殺や、他人の幸せ妬み、自暴自棄となり、危害を加えることもあります。最近、世の中の出来事をみると、無差別に突然襲いかかり危害を加える事件が多発しています。心は絶え間なく変動し、脆く不安定な状況になっても、話ができる友人や集える場所があると、感情は静まります。現代の社会は人々が孤立化する方向に向かっています。人は安心を求める脆い心の持ち主です。一人では生きてゆけません。生活が豊かに成り、他人のプライバシーを侵害しないのが良いことのようにいわれますが、結果は逆方向に進んでいるように思えます。

ブッダの教えに救いがある

仏教はキリスト教やイスラム教と同じような宗教と思われていますが、本来はブッダの人生哲学で、頼るべき神はいません。生きている真の姿は、死を恐れている私という実体はないと、気づいて老病死を克服する教えです。その基本となる見方は「諸行無常」であり、「諸法無我」であることを知ることです。あらゆる存在や物事は、常に変化し留まることもない無常の姿である、と見極めることが大切です。私という身体も、脳が生み出す思考や概念も、刻々と変化して、先ほどの私と今の私は既に変わっていると気づくことが必要です。変化する私や物事は、固定した実体がない「無我」と知るのです。生きているのは、原因があり、結果が生ずる因果法則によって生活していると自覚できると、執着している自我意識が弱くなり、苦しみは軽減されます。

私の近況報告

自我の執着を捨てると言っても簡単には出来ません。私自身も、人生は生老病死と分かっていても、老いて病気になり一生を終る最終章にきていることを再認識しています。そうなると、日々の生き方が大切になり、生きているとは、「今、ここ」しかないと気づきました。

私は60歳以降、母の認知症が進み始めていたのを見て、10年は恩返しと思い両親の世話の傍らで、書道や絵画、仏教の学びとして空いた時間を使っていました。70歳で両親を見送り、その後は趣味三昧の毎日です。今年84歳になり、今までの活動を振り返ってみましたが、どれも中途半端なレベルであると認識しました。趣味で描いた絵画の処分をしようと思い、整理を始めましたが、処分出来ずに眺めていると、仏教で学んだ言葉が浮かんできました。思い切って筆を持ち、書き込んで見ると絵と書が調和することに気づきました。それ以降、今も通っている書道教室(23年)で書画を紹介し、絵ハガキを作成し、下部の余白に言葉を添えて皆さんに差し上げています。

3月の書道教室で紹介した絵と文章を紹介します。

添付した書画(室生寺五重塔、サイズF10) に添えた言葉です。

「観自在とは、物事の本質を自在に観ることができる心の状態です。執着している概念や欲望を一度捨てると、自然に生かされている自己を観ることが出来ます。「今、ここ」に生きていることに気づきます。」   

これまでに12作品以上貯まりましたので近くの麻生老人福祉センター(健康な人の活動拠点で各種催しや趣味の教室など)の

ギャラリー(無料で留守番がいらない)で個展(6月23日~7月5日)をすることにしました。親しい友人を誘い見に来て頂こうと計画しています。

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